シューマンの革新性

schumann_2_cello_bernstein_maisky.jpg昨晩は思いのほか体調不良でブログを書くのもままならないまま早々と床に就いた。食欲もあまりなく、とはいえ食べずにいるのは余計に体力を消耗するので、少しだけ胃に入れ、風呂で身体を温め、即布団に入った。体調が思わしくないとはいえ、大学の講義をいい加減にやることはできない。緊張感を持って臨むと身体はいうことを聞く。「病は気から」というが、その通りだ。

ところで、バーンスタインが没して早くも20年が経過するが、あの最後の来日時の札幌での「パシフィック・ミュージック・フェスティバル」の壮絶なドラマが描かれたドキュメンタリー・ビデオを初めて観たときは衝撃だった。ロンドン響との公演を中途半端でキャンセルし、帰国したことは、当時随分物議を醸した。主催であった野村證券には相当なクレームが入ったと聞くが。チケットを入手しながら結局最後の指揮姿を見ることができなかった僕も、どちらかというと残念というより腹立たしい気持ちでいっぱいだったくらいだから。

既にその時バーンスタインの身体は病魔に相当蝕まれていたようで、そのことを知ったのはあっという間に数ヶ月後に亡くなり、その後、様々な特集記事でその頃のことが書かれているのを読んでから。まさかそんなに症状が悪化していたなんて知らないじゃないですか・・・、だったら友達にチケットを譲らず、最初のサントリーホールでの公演に行っておけばよかった・・・、そんなことを思った。

PMFでのシューマンの交響曲第2番のリハーサル風景は観ていてとても勉強になる。世界中から集めた青少年で構成されたオーケストラの音が時間を追うにつれみるみる上手くなってゆくのも見どころだが、何より本当に人が好きなんだということが手にとるようにわかるバーンスタインの一挙手一投足が、教育に携わる者にとって学ぶことが多い。しかも、体調不良どころか、最悪の心身状態にも関わらず、あの凄まじいまでの人を動かすエネルギー、大したものである。

直接的なふれあい、そして確かな根拠に基づいた音楽表現をわかりやすく、かつ具体的に指示する様、さらに、それによって若者が前向きになり、もっている能力を最大限に引き出される様子・・・。

シューマン:
・交響曲第2番ハ長調作品61
・チェロ協奏曲イ短調作品129
ミッシャ・マイスキー(チェロ)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

ウィーン・フィルとのものはさすがに安定しているが、この人間臭い、喜怒哀楽のすべてが刻まれる音楽をより「人間らしく」表現し得ているのは、先のPMFでの演奏だと僕は確信する。決して評判が高いとはいえないこの音楽の真価を教えてもらったのはバーンスタインとPMFオーケストラによって。僕にとってはシューマンの第2交響曲は宝物に等しい。

それと、マイスキーの独奏によるチェロ協奏曲!40歳のロベルトが自信を持って世に送り出した傑作。チェロと管弦楽が混然一体となり、革新的で統一感に満たされた音楽。作曲家として社会的名声も獲得し、多忙で充実していた時期であることがよくわかる。世に残る芸術家は誰しも「挑戦者」なり。


4 COMMENTS

タツヤ

はじめまして。調べ物をしているうちに貴殿の6月30日のページにたどり着きました。6月のページにコメントしても気がついてもらえないと思い、失礼ながらここにコメントさせて頂きました。失礼をお許しください。LIVE UNDER THE SKYについて教えて頂きたいことがあるのですが、質問させていただいてもよろしいでしょうか。

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雅之

こんばんは。
バーンスタイン&PMFのシューマン:交響曲第2番についてはおっしゃるとおり。これを観ずして(聴かずして)、この曲は語れないと言っても過言ではありませんね。
>世に残る芸術家は誰しも「挑戦者」なり。
ご紹介したい、最近読んで痛快だった話。
【次代への名言】非常の師弟編(9)
       2010.10.21 03:18
 「音楽という世界共通の言語にたずさわりながら、人の心という最も通じにくいものにも精通する、真の達人となる日を、私は祈っている」(三島由紀夫)
 渡欧から2年後の昭和36(1961)年4月、小澤征爾は数々の栄冠を手みやげに凱旋(がいせん)帰国を果たした。翌37年6月、26歳の小澤はNHK交響楽団と契約を結ぶ。すべり出しは上々だったが、5カ月後、楽団員が小澤が指揮する演奏をボイコットするという事件が起きる。
 東南アジア公演で、小澤が発熱のために指揮を間違えたことが発端だったが、若く、米国流の小澤に対する楽団員の反発(作曲家、武満徹は「N響はほんとに小じゅうとの集団なんだよ(笑)」と語ったことがある)が問題の根本にあった。
 「孤立無援の大変なときにね、親父(おやじ)がね、人殺しと盗みをしないんだったら悪いことじゃない。オーケストラなんかに幾(いく)ら悪いことをしたって、そんなに大したことじゃないから、おまえのバックになってやると言うんですよ(笑)。いま考えると笑い話だけれども、そのときは心強くてね」。理解者は父、開作だけではなかった。38年1月、そうそうたる文化人たちが「小澤征爾の音楽をきく会」を開催、小澤は、日本フィルと満員の聴衆を前に、涙と汗のタクトを振った。
 冒頭は、発起人でもあった三島由紀夫が小澤に贈った一文。また、米国に戻ったとき、師のバーンスタインは恐縮する小澤に言った。「音楽は一つじゃない。いろんな音楽があっていいんだから、どんどんやりなさい」
=敬称略(文化部編集委員 関厚夫)・・・・・・《産経ニュース》
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/101021/acd1010210318000-n1.htm
より
今年はバーンスタイン(1918年8月25日 – 1990年10月14日)の没後20年ですが、
三島由紀夫(1925年1月14日 – 1970年11月25日)没後40年でもあり、本日は、その三島の命日ですね。

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岡本 浩和

>タツヤ様
こんばんは。コメントをありがとうございます。
“Live Under The Sky”についてのお問合せということですが、バックグラウンドを含めあまり込み入った質問だと答えきれない可能性がありますが・・・。特にジャズの音楽的に専門的な知識を要する場合はお手上げです。とはいえ、誰かこのブログを見ている方が答えてくれるかもしれませんので(苦笑)とりあえずご一報ください。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
三島の箴言といい、バーンスタインの言葉といい、いずれも若き芸術家にとっては涙の出るような文言ですね。大変気に入りました。ご紹介ありがとうございます。
こういう人たちに支えられていた小澤の音楽を決して馬鹿にしてはいけないなと改めて反省いたしました。
>三島由紀夫(1925年1月14日 – 1970年11月25日)没後40年でもあり、本日は、その三島の命日ですね。
あ、そうでした!あれから40年なんですね。僕は物心ついたかつかないかの小学1年生でしたが、あのニュースは不思議に焼き付いています。

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