長年の愛聴盤。
マルタ・アルゲリッチが正式にスタジオ録音したバッハのアルバムはたった1枚きりだが、この50分ほどの音世界が生み出す恍惚は、どんな音盤をも圧倒する慈愛に漲る。
それこそ時間の流れから生れる律動と、空間によって創出されるポリフォニックな響きの自然な一体化は僕たちの耳を刺激し、魂までが揺さぶられる。
あれから37年が経過するが、そのめくるめく鼓動は決して色褪せない。
かつて山根銀二氏は「音楽は意味の芸術だ」と言った。
音楽は意味の芸術である。それは音で組立てられた意味であり、音の組立であらわされた意味である。そのような意味としての音楽は、はじめ簡単な組立をもち、小さな形のものとして成立する。社会が発展するにつれて、その意味は内容を変化させ、充実せしめ、形を大きくしてゆく。社会を構成しそのなかで生活をいとなんでいる人間の姿が次第に濃く、その組立のなかにうつし出されてくる。いろいろな音楽の種類が、そのような形成の歴史のうちに生み出され、さまざまな形式がつくられてゆく。こうして音楽は人生的な意味をあらわす芸術となり、すでに永い歴史をそういう資格において過ごしてきているのである。
~山根銀二著「音楽美入門」(岩波新書)P177
音楽そのものも意味の芸術だが、何より再現者の与える「意味づけ」が一層音楽を芸術に近づけるのだろうと僕は思う。
日常生活においてはじゃじゃ馬のマルタもひとたびピアノに向かえば神。
それは、自然児マルタがまさに混沌を同期し、見事な調和を創出するかのよう。
カオスが同期するという事実が明らかになったことで、同期現象そのものについての理解も深まることになった。従来、同期現象は常に、律動性と抱き合わせで研究されてきた。この二つの概念は密接に絡み合っているため、本来この二つが異なるものであるということは往々にして見過ごされがちである。律動性とは、何らかの対象が一定のインターバルをおいて反復行動するということを意味するが、一方、同期現象とは、二つの対象がいっせいに同じ振る舞いを見せるということだ。この二つの概念が混同されてしまうのは、多くの同期現象に律動性が現れるからに他ならない。同期するホタルは、いっせいに発光するだけでなく、一定のインターバルで周期的な発光を行なう。心臓ペースメーカー細胞の場合も、発火は同期するのみならず、一定の速度で生じる。また月は、地球の周囲を一回公転する間に一回の自転を見せている。つまり、月の自転も公転も、規則正しく反復する周期にしたがっているというわけなのだ。
~スティーヴン・ストロガッツ著/蔵本由紀監修/長尾力訳「SYNC―なぜ自然はシンクロしたがるのか」(早川書房)P273
バッハの音楽は奇蹟だ。
そして、マルタ・アルゲリッチの演奏はそれ以上の奇蹟だ。
J.S.バッハ:
・トッカータハ短調BWV911
・パルティータ第2番ハ短調BWV826
・イギリス組曲第2番イ短調BWV807
マルタ・アルゲリッチ(ピアノ)(1979.2.6-9録音)
この有名なバッハ作品集について今さら僕が何かを書くまでもなかろう。
音の一粒一粒に込められる意味深さ。
特に、イギリス組曲第2番の深層に垣間見える哀感、同時に弾ける愉悦。それは、様々な感情が錯綜する万華鏡の如し。
彼女の十八番であるパルティータ第2番については言わずもがな。
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