ヘンゲルブロック指揮バルタザール・ノイマン合唱団のパーセル&バッハ(2007.3録音)を聴いて思ふ

死を悼む歌。
平穏は、無心に至ったときにこそ獲得できるもの。

バッハのモテットは、葬儀や追悼式のために書かれたものである。その意味では、彼にとって現実的な収入に結びつく大事な仕事であった。

現在の私の地位は、およそ700ターラーになり、いつもより葬式が多い場合には、それに応じて臨時収入もふえるのでありますが、ひとたび健康の風が吹くと、反対に収入が減り、たとえば昨年は、葬式によって普段得られる収入を、100ターラー以上も失ったようなしだいであります。
(1730年、エールトマン宛手紙)
井上太郎著「レクイエムの歴史—死と音楽との対話」(平凡社)P133

バッハの勤勉さ、現実的な思考が自ずと読み取れる。
作曲活動はそもそも生活を支える術だったということを僕たちは忘れてはなるまい。
同様に、バッハにとって作曲は、大自然との一体、融合を体得する方法であったのだろう。

自然現象の把握において、ヴァーグナーとバッハの相違は最も明瞭に現われる。ヴァーグナーは自然を感情によって、バッハは—この点でベルリオーズに似ているが—想像力によって捉えている。バッハは、風をはらんだ砂塵の渦、空を駆ける雲、散ってゆく木の葉、たけり狂う波を、聴く者が実際に眼でも見ざるをえないと確信するにいたったとき、やっと満足の意を示すのである。
アルベルト・シュヴァイツァー/浅井真男・内垣啓一・杉山好訳「バッハの音楽における語と音(抄)」
~「音楽の手帖 バッハ」(青土社)P76

神が自然と一体であり、自然と愛がひとつであることをバッハは知っていた。
人と人とがつながるのは、余計な思念を横に置き、それこそ自然に身を委ねることができたときなのだとあらためて思う。

パーセル:
・アンセム「主よ、われらの罪を思い出したもうことなかれ」Z.50
・「メアリー女王の葬儀の音楽」
・アンセム「主よ、我が祈りを聞き給え」Z.15
J.S.バッハ:
・カンタータ第131番「深き淵よりわれ汝に呼ばわる、主よ」BWV131
J.L.バッハ:
・モテット「我らは地上の住処を知っている」
J.S.バッハ:
・カンタータ第150番「主よ、わが魂は汝を求めん」BWV150
トーマス・ヘンゲルブロック指揮バルタザール・ノイマン合唱団&アンサンブル(2007.3.23-24録音)

「生の喜び—死の芸術」と題されたモテット&カンタータ集。俗世でこびりついた思考のごみをいかに洗い流すのか。無心に音楽に身を寄せることだ。
ヘンリー・パーセルの清らかさ、そして美しさ。旧作を交えて編纂された「メアリー女王の葬儀の音楽」の無垢。

パーセルは女王の葬儀から9ヶ月と経たない11月21日、36歳の若さで逝った。その日は奇しくも音楽の守護聖人セシリアの祝日の前日だった。
井上太郎著「レクイエムの歴史—死と音楽との対話」(平凡社)P135

現れては消えゆく音楽の儚さは、人生のそれと同様。時間の悲しさよ。
ところで、バッハのカンタータ第150番「主よ、わが魂は汝を求めん」終曲合唱は、ブラームスが交響曲第4番終楽章パッサカリアの低音主題に引用したことで有名なものだが、ここでのヘンゲルブロックの創造する音楽は、明朗で希望に満ちるもの。

苦しみの日々を
主は変えたもう、喜びに。

世界に苦しみなど、本当はないのかもしれない。
すべては思考の生み出す罠なんだ。

ヴィトゲンシュタイン嬢が土曜日からまたレッスンをしてほしいと言ってきました。彼女はバッハの「インヴェンション」と「シンフォニア」を弾くべきです。そうすれば陶酔のうちで途方にくれ、音楽においてはかならずしも「ああ!」と言う必要のないことや、いつも「おお!」と言ってばかりはいられないことがわかるようになるでしょう。
(ヨハネス・ブラームス/角倉一朗訳)
~「音楽の手帖 バッハ」(青土社)P203

驚愕のバッハ。

 

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