朝比奈隆のブルックナー「ミサ曲へ短調」(1983)を聴いて思ふ

bruckner_3_mass_asahinaちょうど1週間前ですが、私は、私のミサ曲のなかでいちばん難しいヘ短調第3番を、はじめて、アウグスティーナ教会で演奏しました(費用は300グルデンでした。宮廷歌劇場の人々を使ったからです)。いとも高き方の栄光のために書かれた曲ですので、私はまずは教会で演奏したかったのです。芸術家たちからも他の聴衆の側からも、言葉では言い表せないほどの喝采をいただきました。
1872年6月23日付、シーダーマイヤー宛手紙
根岸一美著「作曲家◎人と作品シリーズ ブルックナー」P62-63

指揮者ヨハン・ヘルベックが初演を聴いた直後、「私が知る最高のミサ曲は、この曲とベートーヴェンの〈ミサ・ソレムニス〉だけだ」と感激のあまりブルックナーを抱き締めたという逸話が残っているほど。

30余年前の東京カテドラル教会マリア大聖堂。
田舎者の僕が、上京して最初に聴いた朝比奈隆である。この一世一代のコンサートのためにこの年4月東京に派遣されたのかと思うほど一期一会の素晴らしい音楽とその時僕は対峙した。美しかった。ヘルベックではないけれど心の底から感激した。

交響曲はともかくとして、少なくともヘ短調のミサ曲は教会で演奏するために書かれたもの。例えば、「クレド」楽章での、いつまでも続くような残響に包まれた全休止における恍惚感はマリア大聖堂だったからこそ味わえた体験・・・。

ブルックナー:ミサ曲へ短調WAB.28(原典版)
中沢桂(ソプラノ)
伊原直子(アルト)
林誠(テノール)
勝部太(バス)
T.C.F.合唱団
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1983.9.16Live)

こんな音楽を生み出すブルックナーが聖人などでなく、あまりにもドジな俗物であったことが興味深い。何より人間の内側の「聖なるもの」と「俗なるものの」二面性をこれほどまでに包含する天才の矛盾を知る快感。何という弱さ。何という正直さ。何という純粋さ。
一般生活においての失態の背面には彼の崇高な精神がみてとれる。いわゆる「純粋培養」ということだ。

1871年10月のある日、教員養成学校の女子クラスで教えていた時、ある生徒に対して親しく呼びかけてしまったことを、隣に座っていた生徒が、(今でいうところの)セクハラだと訴えたがため、ブルックナーの素行が問題視され、結局男子部の担当に移されたという事件が起こっている。

本人に意志はなくとも相手や周囲がそのように捉えてしまうという悲劇・・・。
あまりに不憫だ。

10月という月は私の神経という神経をずたずたに引き裂きました。もうウィーンには何の楽しみも喜びもなくなりました。生活のために多くの学校で教えなくてはならないのですが、そのために芸術のための時間が失われていくのです。
1871年11月2日付、マイフェルト宛手紙
~同上書P61

生活と芸術の間に挟まっての苦悩・・・。凡人の僕には知る由もない苦しみ・・・。ブルックナーが神に助けを求めた源泉を見るようだ。

「キリエ」冒頭の、静謐で祈りに満ちた管弦楽の調べに、何かが始まる予感を感じる。
全編を通じて合唱の勢いと絶叫にも似た歌に思わず襟を正す。そして、バスによる「主よ、憐れみたまえ」の、深い呼吸のフレーズに跪く。
朝比奈のいつもの低弦を重視した、あの力強いベースの上を高弦楽器群がうねり、金管が咆え、何より合唱が高らかに歌いあげる「グローリア」に心奪われる。
作品の中心となる「クレド」は、ブルックナーのまさに信仰告白であり、ここにはブルックナー指揮者としての朝比奈の心血のすべてが注がれる。
例えば、前半に現れる、ヴァイオリン独奏(及びヴィオラ独奏)に絡む合唱の地から湧き出る響きの崇高さ。さらに、テノール独唱の解放感。どこをどう切り取ってもブルックナー的であり、当時の高名な批評家であるエドゥアルト・ハンスリックでさえ絶賛したほどの「音楽的充実」が聴き取れる。
そして、「サンクトゥス」以降、音楽は一層輝きを増し、勢いづく。それにしても最重要ポイントは全休止だ。この空白によって音楽の流れは一旦堰き止められ、新たな楽想に触れるとき、聴く者の心はさらなる高みへと導かれるのである。ミサ曲が教会で、長い残響を伴う中で演奏されなければならなかった理由が朝比奈&大阪フィルの稀代の演奏によって理解できるのである。
「ベネディクトゥス」に在る色気と芳香は、野人ブルックナーとは思えぬ上品さ。弦楽器の豊潤な響きがそれに輪をかける。
続く最終章「アニュス・デイ」の、涙に濡れる音楽の満ち足りた憧憬に、ブルックナーが作曲家としてひとまず完成をみたかのような錯覚を覚えるほど。素晴らしい。

とはいえ、編集の関係からか最後が唐突に、ぶつ切れで収録されているのがもったいない。ここはしっかりと当日の拍手喝采まで残しておいて欲しかった。

 

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