通称「愛のセミナー」第1回が無事終了した。一日でどこまで「気づき」を落としこめるか心配もあったのだが、結果は上々。少なくとも受講していただく方の状態や状況に依るところが大きいのだけれど・・・。自分自身が存在していることの意味や価値に気づくこと、そして両親や祖父母、あるいは周りにいる友人たちへの感謝することの重要性。身近なそういうところから一歩一歩着実に是正していけばすべては良くなると思う。
今日も新聞を覗き込むと、中国製冷凍ギョーザの薬物中毒問題。いかに世間を騒がせているかということなのだが、裏返せば「手軽で安い」食としての中国産の食品に日本人がどれだけ依存しているかという問題にもつながっている。今や天ぷらや枝豆、蕎麦、漬物など「和」の食材でも中国産頼みというのが現実のようだ。
しかし、純粋に僕は感じるのだが、ギョーザの皮はともかくとして中身の具ぐらい自分で作ったらどうなんだろうか。そんなものを作る暇もないほど今時の兼業主婦は忙しいのかもしれないが、身の安全や健康を考えると最低限の「食」は自分自身の手で調理した方がいいと思う。加工品ほど調理過程が見えない恐ろしいものはないのだから。
閑話休題。
新聞記事を見ていてふとそんなことを思いながら、やはり「自分」や「他者」を大切にするという「意識改革」が現代人には必要のように思う。「愛」というとほとんどの人はとても大袈裟に考えたりするが、人に感謝することや大事にすることこそが「愛」であり、決して哲学的なものでもなければ、難解なものでもないのである。面倒臭がらず全てを大切にする気持ち、そして全ては「一つ」だという意識。それがポイントである。
ブラームス:後期ピアノ作品集
ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)
ブラームス最晩年の傑作小品集(作品117、118、119)。美しい・・・。一つ一つの音符に意味と魂が込められており、作曲者が最後の日々をひとり孤独に送る「寂しさ」や「自由」、そして年齢を重ねたがゆえに染み出る「渋み」が見事に音化されている。以前サイモンとガーファンクルの「Sounds of Silence」について書いたことがあるが、まさに「静寂」を音として表現したような楽曲であり、これこそが「究極の愛」の投影ではないかと思うくらいである。特に作品118の第2曲には胸を打たれる。
例によってアファナシエフのテンポは極限まで遅い。途中で止まってしまうほどではないかと思わせるほどだ。しかし、この間といい音の「流れなさ」といい、そうあらねばならないほど完璧なのである。
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[…] アファナシエフの印象は、気難しさと小難しさ。 ブラームスの後期小品集やショパンのノクターン集、あるいはマズルカ集などは初めて聴いたときその深遠さと巨大さに相当感激したも […]
[…] シューベルトの数多あるピアノ曲の中で目下の愛聴曲は、最晩年の「3つのピアノ小品」D946だ。おそらくマイナーな作品だと思うが、小品とは名ばかりで、シューベルト特有の「悠久な」というか「永遠の」というか・・・、いつまでも「歌」の続く、しかも性格の異なる3曲が時に微笑みかけ、そしてときに涙を見せ、どうにも僕の心を釘付けにする。第1曲アレグロ・アッサイは10分ほど、第2曲アレグレットも同じく、そして第3曲アレグロが6分ほど、合計で30分近く要する大曲。物理的にも結構な長さではあるが、どういうわけかとても短く感じられる。どうしてだろう?通常のシューベルトによくある「感情の垂れ流し」でないのかも・・・、不思議なものだ・・・そんなことを思い、この曲集を繰り返し聴く。 D946は作曲者の生前には発表されなかった。ブラームスによって見出され、1868年になってようやく出版されたという代物である。この「ブラームスによって」というところがミソ。ヨハネスの同じく晩年の小品集にも通じる何とも孤独でありながら純白の何にも汚されることのない世界観。ブラームスはシューベルトの影響も明らかに受けているのでは・・・。モーツァルトからベートーヴェン、シューベルトに、そしてシューマンからブラームスへと引き継がれる独墺系音楽の歴史の流れにおいてシューベルトの果たした役割って実に大きいのかも・・・。今更ながらそんなことを考えた。 […]