ジャン=イヴ・ティボーデの「マジック・オブ・サティ」(2001.12録音)を聴いて思ふ

satie_thibaudet革命以来の貴族の没落や反カトリック主義、産業革命以来の都市の貧困が進んだ19世紀末のフランスには、反動としての孤高な精神主義と同時に科学主義に支えられた万物照応の理論があった。比率と調和が宇宙の動きから芸術、哲学、政治にまで共通した波動を与えているという認識と共に、音階や円周率や黄金比などが割り切れない無限の神秘の数字を内包していることが芸術家をインスパイアしていた。
(竹下節子「エゾテリック・サティの時代(1891-1895)」
ユリイカ1月臨時増刊号「エリック・サティの世界」(青土社)P139

一聴、不可思議な彼の音楽には天使も悪魔も宿る。
そこにはリヒャルト・ワーグナーや、あるいはアレクサンドル・スクリャービンが目指そうとした色気以上のエロスが厳然と存在する。そしてまた、その色香はガブリエル・フォーレやクロード・ドビュッシーの内包した「それ」以上かもしれぬ。
老練の色気という表現が正しいのかどうなのか、ある一定の年齢を重ねないことには見えないであろう古びた(?)体躯から放出される奇妙な精力。
そして、変わったタイトルが示すように、聴く者を茶化す美的センス。
エリック・サティの天才。
彼はまた恥ずかしがり屋なんだ。
心を閉ざした繊細さ。

―なぜ人間は美しいのだろう?
―あらゆる動物の中で、人間だけがそんなことを言うからさ。
―人間の最大の敵は何だろう?
―人間。
エリック・サティ著/秋山邦晴・岩佐鉄男編訳「卵のように軽やかに」(ちくま学芸文庫)P167

何という辛辣さ。何と的を射た言葉。

ジャズはわれわれにその苦しみを語りかけてくる―でも、「知ったことか」・・・。だからこそ、ジャズは美しく、現実的なのだ・・・。
~同上書P177

しかし実に正論だ。

ひとり静かに対峙する。
僕と他とを隔絶する神秘的な音楽。
エリック・サティを聴く最中は、僕はサティの内にある。音のひとつひとつと見事に同化する。
時に不穏な空気を醸す音楽。
また、時に不安をかき立てる音楽。
そして、時に夢見る音楽、あるいは歓びに満ちる音楽。

マジック・オブ・サティ
・ジムノペディ第1番(1888)
・グノシェンヌ(1889-1897)
・世俗的で豪華な唱句(1900)
・ジムノペディ第2番(1888)
・ジュ・トゥ・ヴー(1897)
・びっくり箱(1899, ダリウス・ミヨー編曲1926)
・夢見る魚(1901)
・ピカデリー(1904)
・アンゴラの雄牛(1901, ジョニー・フリッツ編曲1995)
・ジムノペディ第3番(1888)
・コ・クオの少年時代(母親の忠告)(1913)
・官僚的なソナチネ(1917)
・エンパイア劇場のプリマドンナ(1904, ハンス・オーディーヌ編曲1919)
・風変わりな美女(1920)
・「真夏の夜の夢」のための5つのしかめ面(1915, ダリウス・ミヨー編曲1928)
ジャン=イヴ・ティボーデ(ピアノ)(2001.12.19-22録音)

センス満点で洗練されたティボーデの(自らを自らの手で癒す)ピアノ。
「ジムノペディ第1番」の静かな美しさは筆舌に尽くし難い。続く「グノシェンヌ」の憂鬱。
端整な指さばきで、音楽は確信をもって動く。しかし、虚ろな表情で。
また、「官僚的なソナチネ」の躍動にサティの陽気を思い、「風変わりな美女」にサティの遊び心を知る。ショスタコーヴィチにも通ずる、何という大らかさ。自分の音楽を虚仮にする人々をサティは笑う。

人間は完全ではありえない。私は彼らをけっして恨んでなどいない。彼らは、自覚のなさと、炯眼のなさの最初の犠牲者なのである。・・・あわれな人びとよ!・・・私はこのように彼らに同情的である。
(「自由手帖」誌・1924)
~同上書P101

 

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