ラトル指揮ベルリン・フィルのハイドン第92番「オックスフォード」ほか(2007.2Live)を聴いて思ふ

あらゆる人間関係の結果は、親子関係に起因するものだと僕は思う。
そもそも関係は相似なのである。その意味で、厳密に公と私は分けられないものではなかろうか。

進歩とともに世界が分断され、それによって病むようになったのはどの世界でも同じようだ。人間は弱くなった。

ハイドンによって確立された交響曲と弦楽四重奏曲のジャンルは、近代市民生活の「公」と「私」の領域にそれぞれ対応しているといえるだろう。よくいわれることだが、労働によって特徴づけられる「公」と余暇や家庭の営みが属する「私」への生の分離は、近代市民に特有のものである。そして後で述べるように、ロマン派音楽ではこの二つの領域の間に、深刻な亀裂が走るようになる。それはつまり、「内面感情への過剰な耽溺」と「外面への過剰な自己顕示」である。この意味でロマン派音楽はおしなべて、自己分裂を病んでいるとすらいえよう。だが古典派音楽の精神においては、この「公と私」は決して媒介のない分裂した世界ではない。
岡田暁生著「西洋音楽史—『クラシック』の黄昏」(中公新書)P110-111

ハイドンやモーツァルトの音楽が美しいのは、間違いなく分裂がないからだろう。
サー・サイモン・ラトルのハイドンを聴くと、現代的なセンスの中に、古の音調を刻みつつ、つまり過去への憧憬を孕みつつ、彼が、未来に向けての希望を潔く音化する術を心得ていることがよくわかる。こういうきびきびした、しかし、温かい音楽こそ現代社会が求めている「融け合い」であり、「調和」なのかも。いわば、邪魔にならない心地良さ。

ハイドン:
・交響曲第88番ト長調Hob.I:88(1787)
・交響曲第89番ヘ長調Hob.I:89(1787)
・交響曲第90番ハ長調Hob.I:90(1788)
・交響曲第91番変ホ長調Hob.I:91(1788)
・交響曲第92番ト長調Hob.I:92「オックスフォード」(1789)
・ヴァイオリン、チェロ、オーボエとバスーンのための協奏交響曲変ロ長調Hob.I:105(1792)
安永徹(ヴァイオリン)
ゲオルク・ファウスト(チェロ)
ジョナサン・ケリー(オーボエ)
シュテファン・シュヴァイゲルト(バスーン)
サー・サイモン・ラトル指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(2007.2.8-10&14-17Live)

例えば、第88番ト長調第1楽章主部アレグロの、小躍りしたくなるような明朗さは、ハイドンの創造力もさることながら、ラトルの再生の神髄。あるいは、優しい第2楽章ラルゴで、突如として強音でうなる音の醍醐味は、作曲者の創造の見事なセンスでありながら、対比を際立たせるラトルの力量。
また、第89番ヘ長調は地味な作品ながら、第1楽章ヴィヴァーチェは、文字通り快活で生命力に富んだもの。そして、第90番ハ長調の第1楽章序奏アダージョの堂々たる暗い趣きは、主部アレグロ・アッサイの澄明さを一層引き立たせる。

中でも一際優れているのは第92番ト長調「オックスフォード」。
第1楽章序奏アダージョの、厳かで優しい響き。主部アレグロ・スピリトーソの勢いは、軽快さの中に秘める「重み」がしっかりと感じ取れる表現。ベルリン・フィルの、個々の奏者の技量が光る。第2楽章アダージョの美しく豊かな旋律、また、第3楽章メヌエットは、シンコペーションのトリオが何とも癒しに満ち、短いながら心奪われる。そして、終楽章プレストの、特にティンパニの、ピリオド風の強烈な打撃!!

このような様式(ソナタ形式)で書かれた音楽は、朝の陽が露にぬれた木の葉に照りかえるように、きらきらとわれわれの眼を射る。そのときにわれわれは神よりもまず人間を感じないではいられない。音の線の連綿と横に流れてゆく姿よりも、大胆に力をこめて跳躍し、奔流のようにほとばしるダイナミックな構成は、われわれ自身の肉体に接近しており、それを表出するもののようである。
山根銀二著「音楽美入門」(岩波新書)P88

音楽評論の古典に目を開かれる思い。なるほど、ハイドンの音楽には、人間的ゆえの美しさがあるんだ。

 

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