DRUMMING STEVE REICH KUNIKO

幸せだ。
(特にパート3での、録音の金属的な音が気にはなったが)、終始母の胎内にある思いがした。自然は、人間は鼓動の中にある。それも、わずかにゆらぎのある蠢きの中に。

加藤訓子のスティーヴ・ライヒを聴いた。
1971年の”Drumming”。果たして一人多重録音をどのようにライヴで演奏するのか、僕はとても興味があった。ふたを開けて見ると、テープ録音をベースに、彼女が壮絶な、そして繊細な、あるいは精緻なパフォーマンスを黙々と繰り広げるというものだった。当然である。
しかし、僕の心は最初から最後まで動きっ放しだった。その感動は今も蘇る。

リズムという時間の中に生を得た僕たちは、やはりリズムに感応する。テープ録音の音なのか、それとも生の音なのか、ある瞬間を境目にわからなくなるという、人間の鈍い感覚。夢なのか、それとも現実なのか、この世界に生きていて、いつも迷いが生じるそのことを、あからさまに加藤訓子は教えてくれた。すべては幻想の中にあるが、すべては現実なのだということを。ならば、信じた方が良い。疑いの念は手放した方が良い。

ステージ正面に位置する(調律された)ボンゴ・ドラムに始まるパート1から息を飲んだ。延々と、いつ終わるとも知れぬ音響は、たったそれだけで官能を喚起した。僕はベラ・バルトークの言葉を思い出していた。

この農民音楽は形式上、考えられる限りもっとも完成され、もっとも変化に富んでいた。その表現力は目をみはるほど大きい。それに加えて、どのような感傷的表現、どのような余分な要素も持っていなかった。それはときに原初的なまでに単純だが、けっして幼稚ではない。音楽の復活にとって、これ以上ふさわしい出発点は考えられなかった。また、一人の作曲家にとって、この種類の農民音楽以上に素晴らしい師匠はありえなかった。
「ブダペストでの講演」
ベーラ・バルトーク/伊東信宏・太田峰夫訳「バルトーク音楽論選」(ちくま学芸文庫)P18

芸術音楽は高次だと言うが、形にならない「農民音楽」にこそ音楽の根源的な力が宿るのだと、バルトークは見抜いていた。それは、現代でいうところの、いわばポピュラー音楽に内在するパワーとエネルギーと同質のものだと思う。

ミニマル・ミュージックの本質的快感。

スティーヴ・ライヒ「ドラミング」加藤訓子
2018年11月8日(木)19時開演
サントリーホール・ブルーローズ
ライヒ:ドラミング(1971)
・パート1
・パート2
・パート3
・パート4
4台のボンゴ・ドラム
3台のマリンバ
3台のグロッケンシュピール
ソプラノ&アルト・ヴォイス
ホイッスリング&ピッコロ
加藤訓子(パフォーマンス)
寒河江ゆうじ(サウンド・デザイン)

(上手側にある)パート2のマリンバは、聴く者に癒しを提供してくれた。何と優しい音、そして、何と強烈な反復!終わらないでほしかった。さらに、パート3は(下手側の)グロッケンシュピールに移る。極めつけの高い音が(会場の音響のせいか、あるいは録音そのもののせいか)多少耳障りな瞬間もあったが、それすら音楽的ゆえ良しとする。
それにしてもパート4の、すべての楽器を統合し、縦横に叩きまくる加藤の、冷静な表情と、無駄のない動きに、また、陶酔する姿に僕は言葉を失った。

スティーヴからの手紙には最後にこう書いてあった。「僕の音楽にずっと真摯に取り組んでくれてありがとう。プレイヤーに言いたいことは、スコアをしっかりと読んで、常に楽譜に忠実で誠実に向かうこと、最終的に奏者が一番いいと思う音を突き詰めて選んでほしい。この先は君に任せるよ」
「究極のドラミングを求めて」
~当日のプログラム

無条件の信頼関係の中で創造されたパフォーマンスであったということだ。
今宵のあの場にスティーヴ・ライヒ本人がいたら、彼はどんなことを感じていたのだろうか。筆舌に尽くし難い、本当に幸せなひととき。
ちなみに、終演後、歓喜の拍手に応えての、予定になかったはずの、加藤訓子本人からのお話。彼女の作曲者への想いのこもった、そして、今夜あの場に居合わせた聴衆に向けての感謝の気持ちが心底伝わる言葉だった。すべてが素晴らしかった。ありがとうございます。

 

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