フルトヴェングラーのベートーヴェン(1954.8.30Live)を聴いて思ふ

beethoven_7_8_furtwangler_19540830人間の生命力は無限だ。そもそも誰も明日自分の存在が無くなるなどとは信じていない。もちろん肉体は滅びようと魂は永遠。厳密に人は死なないのだけれど、少なくとも目に見える形ではいなくなる。
音楽家の場合、亡くなった後に残るのはいわゆる録音物だ。今でこそ録音技術が発達し、相応の音質で「その時」の名演奏が細密に刻まれるけれど、一昔前は違った。ことに1950年代にロング・プレイイングの音盤が発明される以前のレコードの音質たるや、基本的には鑑賞に厳しいものがある(もちろんそうではない生々しい音が刻まれている稀少な例もあるけれど)。

フルトヴェングラーなどはほんのもう少し長生きしていただきたかった例の一人。そうすればより良い音のステレオ録音が確実に残されたはずだから。
とはいえ、最晩年に至るまでその演奏のすごみ、深さは極大。いや、死に近づくにつれ一層の透明感を獲得しながらも内なる勢いは止まるところを知らない。例えば、火を噴くようなベートーヴェンが聴かれるのである。そう、死の年、ザルツブルク音楽祭の記録。亡くなるちょうど3ヶ月前・・・。

ベートーヴェン:
・交響曲第8番ヘ長調作品93
・交響曲第7番イ長調作品92
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.8.30Live)

第7交響曲冒頭の和音からまさしくフルトヴェングラーの音。悠揚たるテンポで進む序奏から一気にエンジンのかかる主部を経て音楽はさらに白熱する。第2楽章アレグレットの静かな寂しさは、ひょっとすると来るべき自身の死の無意識の認知かもしれぬ。ともかくそのことが如実に音に反映されているかのうようだ。
ところが、第3楽章プレストで音楽は一変する。何とも雄渾で重心が低く、これほど勇ましいベートーヴェンはかつてないのではと思わせるほど。さらに終楽章アレグロ・コン・ブリオの安定感。あくまでも冷静に棒を振る指揮者の「余裕」が垣間見える(これは裏返してみると指揮者の体調不良などによる衰えからくるものかもしれないけれど)。かつての血のたぎる表現は影を潜め、あくまで客観的に音楽が前進する。とにかく見通しは良い。ベートーヴェンが表現したかったことが手に取るようにわかる。この交響曲に刻まれるリズムは命、鼓動だ。そして、そのパルスは決して形を変えず全楽章のどの瞬間にも明滅する。命のバトンが受け継がれ、常に「在る」ことが強調される。

第8交響曲も巨大。これこそフルトヴェングラーでないと為し得ぬ業。
そういえば先日フルトヴェングラーの実演を聴く夢を見た。これほどリアルな夢があったのかと思わせるほどのもの。ベートーヴェンの真の姿を目の当たりに震える自分がいた。
ひょっとするとかつてドイツ第三帝国のあの場に僕はいたのか?興味深い。

 


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