リリー・クラウス ベートーヴェン「テンペスト」「ワルトシュタイン」ほか(1953&54録音)を聴いて思ふ

整音されているせいか、随分円い、くぐもった音響が感興を削ぐが、リリー・クラウスのベートーヴェンを聴いて、彼女の内面から湧き出る人間味というか、優しさ、温かさ、愛情に魅かれる思いがした。音楽はテクニックだけに拠るものではない。その人の持つ波動の体現だ。

古典を現代にひもとく粋。
音楽は揺れ、決して直線的でない弧を描く。おそらく崇高な思い入れだ。
ソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」。覚醒前後のベートーヴェンの達者な筆を、自由奔放に奏するクラウスの仄暗い愛。残念ながら音は異様にこもる。しかし、第1楽章ラルゴ―アレグロから熱を帯びた音楽は、聴く者の心に刺さる。また、第2楽章アダージョでは、沈潜する音の中で浮き上がる高音部に類稀な光彩を発見する。そして、終楽章アレグレット。音楽の進行とともにクラウスのピアノは弾けるが、コーダは意外に大人しい。

「谷崎源氏」を片手にリリー・クラウス。

われから求めて人に知られぬ物思いをなさることは、今に始まったことではないのでしょうけれども、こんな具合に一般の世の中のことにつけてさえ、煩わしくて気苦労なことばかりが殖えて行きますので、何となく心細く、なべての浮世が厭におなりになりながら、さすがに残り惜しいことも多いのでした。麗景殿と申したおん方は、御子たちもおありにならず、故院が崩御遊ばしてからは、いよいよ気の毒なおん有様にならせ給い、今はただこの大将殿の御庇護を受けて、暮していらっしゃるらしいのです。
「花散里」
谷崎潤一郎訳「潤一郎訳 源氏物語 巻一」(中公文庫)P481

光源氏25歳の夏の挿話。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」
・ピアノ・ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」
・ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109
リリー・クラウス(ピアノ)(1953&54録音)

ソナタ第21番ハ長調作品53「ワルトシュタイン」。
いよいよ難聴の悪化する時期の革新的傑作を、クラウスはいかにも女性らしく柔和な響きを前面に押し出し演奏する。第1楽章アレグロ・コン・ブリオは、音割れするフォルティシモすら愛おしいのだ。第2楽章アダージョ・モルトの物憂い表情と、突如として高鳴る感情の対比に僕は時めきを覚える。何より終楽章ロンドの可憐な、しかし、時に男性的な喜び!なるほど、リリー・クラウスのピアノには男も女もいるということだ。

光源氏16歳の夏から10月上旬の恋愛の話。

 心あてにそれかとぞ見る白つゆの
   ひかりそへたる夕がほの花
とりとめもなく書き紛らわしてある具合なども、気高く奥ゆかしい感じがしますので、思いのほかに、たいそう興味をお覚えになります。惟光に、「この西隣の家にはどういう人が住んでいるのか、聞いたことはないか」と仰せになりますと、例のおうるさい癖と思いながら、そうも申しかねて、「この五六日ここに参っておりますが、病人の看護に忙しゅうございましたので、隣のことは一向聞いておりません」と、にべもなく申し上げますと、「私の言うことが気に入らないと見えるね。でもこの扇が何か仔細があるように思えるから、やはりこの辺の事情を知っている者を呼んで、問うてみておくれ」と仰せになりますので、はいって行って、そこの留守番の男を呼び出して尋ねます。

「夕顔」
~同上書P136-137

最後は、ソナタ第30番ホ長調作品109。
第1楽章ヴィヴァーチェ,マ・ノン・トロッポの儚い幻想。その夢が破られるように続く第2楽章プレスティッシモの生命力!さらに、終楽章は変奏曲アンダンテ・モルト・カンタービレ・エト・エスプレッシーヴォの歌!主題に秘められる純粋無垢な音楽が心に迫る。それにしても変奏のめくるめく音調、意味深いテンポの七変化こそクラウスの真骨頂。

ところで、この音盤にはSPレコード復刻時の継ぎ接ぎが気になる箇所がいくつもあり、その辺りは正直興醒めである。

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