数冊の書籍を同時読みしてシンクロを楽しむというのが僕の読書法だが、うち1冊は必ず詩集を入れることにしている。論理的思考を要する散文大著と、感性をフル回転させて思考するポエムと、これらが混然一体となるところに面白さを感じる。
高校の時だったか島崎藤村の「破戒」を読み、ああそういう世界があるんだと初めて「認識」した。頭のどこかに知識の片鱗は持ち合わせていたように思うが、かの小説は随分衝撃的だったと記憶する。それをきっかけに新潮文庫で出ている藤村のものをいくつか読んでみたが、10代の僕なりにしか捉えられていなかっただろうからと、今になってあらためて紐解いてみようと「藤村詩集」をピーター・ヘンゲの「学習する組織」や岡倉天心の「茶の本」(ここのところ「道」と名のつくものに興味があり、茶道関係の本をいくつか読んでいる)などとあわせて読んでいる。
有名な「千曲川のほとりにて」・・・。
昨日またかくてありけり 今日もまたかくてありなむ
この命なにを齷齪 明日をのみ思ひわづらふ
いくたびか栄枯の夢の 消え残る谷に下りて
阿波のいざよふ見れば 砂まじり水巻き帰る
嗚呼古城なにをか語り 岸の波なにをか答ふ
過し世を静かに思へ 百年もきのふのごとし
千曲川柳霞て 春浅く水流れたり
たゞひとり岩をめぐりて この岸に愁を繋ぐ
(島崎藤村「千曲川旅情の歌」~「落梅集」より)
大自然の永遠を前に人の人生などほんの一瞬に過ぎない。でも、そのわずかの期間にも永遠があり、いつでもどこでもそのことを感じられるような感性をもてればすぐさま「幸せ」を体感できる。
同じような感覚を、バッハの音楽を聴くときにも持つ。長らく耳にしていなかったブーニンの演奏を久しぶりに耳にしてやっぱり広大な宇宙を感じ、それこそ平常心で日常の瑣末な事柄に対峙し、人と比較することなく我が道を敢然と歩んでゆくのがやっぱり自分らしい生き方だと再確認する。いくつもの声部が重なり、見事な音楽が紡がれてゆく様は、山あり谷ありの人生を髣髴とし、いつまでも続く人の命も永遠で、どんな瞬間も実は美しいのだということを教えてくれる。
喜びの躍動と悲しみの沈潜が交差する・・・。6曲の「イギリス組曲」は、時にバッハの最高峰ではなかろうかと思わせるほどの宇宙的拡がりを表出する。
ブーニンはこの録音に先立ち、バッハの作品集を2種リリースしているが、彼の音盤が奇跡的な「副作用」をもたらしたことが本人によって語られている。1991年、北イタリアのトリエステにある中央病院での出来事らしい。
それは、「バッハ・リサイタルⅠ」のCDを、小児科で行われる新生児と乳幼児のためのリハビリ・プログラムの中で定期的に流していたところ、生存率が20%も上がったため、院長がピアニスト本人に手紙で感謝の意を表してきたというものである。
何と素晴らしい!!