バックハウス ベートーヴェン ソナタ作品14&作品22(1968.3録音)を聴いて思ふ

ヴィルヘルム・バックハウスのベートーヴェン全集(新盤)の録音場所となったのは、ジュネーヴのヴィクトリア・ホールである。

もう30年近くなるだろうか、僕は幾度か彼のホールを訪れたことがある。
本場のヨーロッパでコンサートを聴くことを楽しみにしていた僕にとって、あのホールでの音楽体験は実に素晴らしいものだった。そういえば、あそこは確か一度焼失したのではなかったか。再建されたその建物はいかにもヨーロッパ調の内部で、潤いある豊かな音響効果を誇っていたように記憶するが、果たしてどうだったか。

その日は、エリアフ・インバル指揮スイス・ロマンド管弦楽団のコンサートだった。ホテルからタクシーで会場に乗りつける際、正装する僕を見て、ドライバーがフランス語訛りの英語で「スペッタクー?」と興奮した様子で何度も問いかけるのだが、今一つ何のことやら要領を得ず、当惑していたところ、ようやく「今日の演目は何だ?」と理解したときに、拙い英語でああだ、こうだと説明しながら盛り上がったことを昨日のことのように思い出す。
旅の記憶とは、何年経っても色褪せないものだ。

しかし日曜日のジュネーヴは快晴であった。湿度の高い南米の夏から、一気にアルプス山脈の澄明な早春へ投げ入れられたのは、まるで情慾の果てたのち、形而上学の世界が立ち戻ってくるようで、掃き清められた午前のジュネーヴの街へ歩み出たとき、私は久しぶりに抽象の世界をまざまざと眼前に見る思いがした。
佐藤秀明編「三島由紀夫紀行文集」(岩波文庫)P112

三島由紀夫の、わずか数時間の滞在に過ぎないジュネーヴの心象の的確さ。「情慾の果てたのちの、形而上学の世界」という表現に膝を打つ。
あの日、ヴィクトリア・ホールで聴いたインバル指揮するドヴォルザークの新世界も、カントロフの弾くラロのスペイン交響曲もとてもストレートな響きで、熱く、美しかった。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第9番ホ長調作品14-1(1798-99)(1968.3録音)
・ピアノ・ソナタ第10番ト長調作品14-2(1798-99)(1968.3録音)
・ピアノ・ソナタ第11番変ロ長調作品22(1799)(1968.3録音)
・ピアノ・ソナタ第12番変イ長調作品26(1800-01)(1963.3録音)
ヴィルヘルム・バックハウス(ピアノ)

ベートーヴェン初期の、溌剌とした音楽を、いかにも無骨に、しかし、想いを込めて奏するバックハウスの表現の深い味わい。一般的には彼の演奏は浪漫に偏らない、厳しいベートーヴェンだと評されるが、僕の耳には、とても心地良く、音は実に柔らかい。殊に、亡くなる前年、1968年の3曲が、老練の透明感を獲得しており、素朴で美しい。
ソナタホ長調作品14-1の瑞々しい哀感。あるいは、颯爽とひらめくソナタト長調作品14-2、例えば、第1楽章アレグロの、特に短調に転じる展開部のニュアンス豊かな音!そして、ソナタ変ロ長調作品22は、ベートーヴェンの自信作。夜を想う第2楽章アダージョ・コン・モルタ・エスプレッシオーネが最高に素晴らしい。

芸術家よ、語るなかれ、創造したまえ。
(ゲーテ)

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2 COMMENTS

ナカタ ヒロコ

岡本 浩和 様
 このCDを聴いてみました。「悲愴」と「月光」の間に挟まれて、地味目なため、これまであまり気を入れて聴いたことがなかったこれらのソナタを、じっくりと聴く機会をくださってありがとうございました。
 「一般的には彼の演奏は浪漫に偏らない、厳しいベートーヴェンだと評されるが、僕の耳には、とても心地良く、音は実に柔らかい。殊に、亡くなる前年、1968年の3曲が、老練の透明感を獲得しており、素朴で美しい。」同感です。1番~7番ほどではないけど、若いベートーヴェンの作品。でもバックハウスの演奏は、何か遠い昔を懐かしむような、慈しむような優しさが感じられて意外でした。バックハウスの初回の録音がどんな演奏だったかは知りませんが、この演奏は人生の機微を味わってきた人が到達した境地なのでしょうか?多くのピアニストが晩年になるとモーツアルトに還る、と言われていることと通じるのでしょうか? 試しにシュナーベルと聴き比べてみました。違いは歴然、でした。
 今まで気がつきませんでしたが、9番~11番には、そこはかとなく哀しみが織り込まれていました。
 

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岡本 浩和

>ナカタ ヒロコ 様

>この演奏は人生の機微を味わってきた人が到達した境地なのでしょうか?多くのピアニストが晩年になるとモーツアルトに還る、と言われていることと通じるのでしょうか? 

まさにその通りだと思います。ベートーヴェンの初期のソナタには、シンプルな深みがありますよね。バックハウスの年輪を重ねたがゆえの素朴な表現がぴったりです。

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