朝比奈隆指揮新日本フィル ベートーヴェン 交響曲第5番(1997.11.12Live)ほか

ほぼ同時に生み出された、2つの、まったく性格の異なる交響曲。

「2曲を同じ2人に献げる、なぜひとりひとりに1曲ずつではなかったのか」という問いをこのように解くとすれば、その意味するところが重要である。出版単位は2つであっても、ベートーヴェン自身としては分かちがたいひとつの「オープス」であるからこそ、被献呈者は同じでなければならなかった。仮に被献呈者がひとりであったならば、通常の献呈と同じことになり、つまり同一人に献げられた2曲がたまたま続きの番号となっただけとなる。わざわざ同じ2人に献げたのは2曲の「オープス」同一性を、もっと言うと、2つのシンフォニーの分かちがたい双生児性を意識していたからではなかったか。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P687

大崎さんの推論はおそらく正しい。この世界においては何にせよ2つの正反対のものが対になって一つであることが真理であることをベートーヴェンはわかっていたのである。
嗚呼、恐るべき(?)傑作交響曲ハ短調。

「運命はこのように扉を叩くのだ」とベートーヴェンが語ったという弟子のシンドラーの言葉は、今となっては信憑性が薄い。しかしながら、扉を4回叩くという、正式な礼節の観点から考えると、「運命」というものはまさにサムシング・グレイトからの聖なる訪問であるのだという楽聖からの人々への大いなるメッセージであったことは間違いない。

第5番に“運命(シックザール)”という異名が付いたのは、シンドラーがその伝記に記した、ベートーヴェンは彼に第1楽章の冒頭を指して「このように運命が門扉を叩く〔So pocht das Schicksal an die Pforte!〕と語った、という逸話をルーツにしている。ピアノ・ソナタ第17番が“テンペスト”と呼ばれる源になった逸話などもシンドラーが生み出したものだが、それらの真実性について裏付けはまったくなく、検証のしようがない。シンドラー言説全体に対する疑いを次第に強めていった後世はやがてそれらに対して慎重に対処するようになった。しかし、ベートーヴェンはそうは言わなかったとの反証を挙げることができる類いのことではないので、根拠のない疑わしいもの、という程度でこの問題はやり過ごされてきた。
~同上書P692

この際言説の正否はどちらでも良いだろう。少なくとも日本ではいまだに「運命」という名称で語られることも多く、ましてや天の恩恵たる正式なる訪問という視点からするなら実にうまくできた話ゆえ、それはそれで良いことにするのも妙案だと僕は思う。

四半世紀ほど前、東京はサントリーホールで開催された朝比奈と新日本フィルのベートーヴェン・ツィクルスの記録。そのすべてを僕は聴いた。昭和から平成に移るその時期にあったツィクルスの印象が強い僕にとって、97年から98年にかけてのそれは頭の片隅にも残らないコンサートだった。しかし、そのときの録音をあらためて聴いたとき、朝比奈御大の指揮の素晴らしさを、ベートーヴェンの確固たる美しさを再認識した。

ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1997.11.12Live)
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1998.2.26Live)
朝比奈隆指揮新日本フィルハーモニー交響楽団

渾身の、堂々たる第5番の造形に懐かしさを覚える。今やこれ以上のベートーヴェンを振れる指揮者がどれだけいようか。楽譜に忠実を旨とするとはいえ、浪漫の薫りを漂わせた愚直なパフォーマンスは何と普遍的なのだろう。

そして、もう一つの双生児交響曲は、精神的にも身体的にもベートーヴェンが最も大変だった時期に生み出されたものだ。

シンフォニー第7番および第8番は、完成はしたが試演だけに終り、公開コンサートを行なって収益に結びつける展望は開けないままであった。相当の経済的出費を伴なったボヘミア温泉治療の成果もはかばかしくなく体調不良は相変わらずで、耳の調子は補聴器の製作を注文するほどであり、”不滅の恋人“との決別の精神的打撃も大きく、心身共に窮状にあったことは前後の伝記的状況から判断できよう。
大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P836

世界を一つにせんと志したベートーヴェンの、軽快な音調とは言え、実に重厚な響きをもつ交響曲ヘ長調の魔法。これこそ朝比奈御大の真骨頂だ。嗚呼!!

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