新古典主義時代の傑作、ミサ曲。
ギョーム・ド・マショーのミサ曲を模範にしたという。音楽は静謐で、暗く、しかし、うねりの内在する刺激的なものだ。時期によってスタイルを変え、都度名作を残したイーゴリ・ストラヴィンスキーの創造には、必ず革新があった。
創造(invention)は想像力(imagination)を想定しますが、前者を後者と混同すべきではありません。創造行為は、ひとつの着想とひとつの実現の必要性を前提とするからで、私たちが想像することは具体的な形をとるとは限らず、潜在的な状態にとどまることもありえますが、一方、創造はその実現の外では考えられません。
ここで私たちが専念するのは、したがって、想像力それ自体ではなく、創造的想像力、つまり私たちが構想の次元から実現の次元に移るのを助けてくれる能力です。
「第3課 作曲について」
~イーゴリ・ストラヴィンスキー著/笠羽映子訳「音楽の詩学」(未來社)P50-51
変化を怖れぬストラヴィンスキーの実行力の賜物こそその夥しい作品群である。
彼は重ねて語る。
創造する能力はそれだけで私たちに与えられることはけっしてありません。それはつねに観察の才と対になって作動します。そして本当の創造家は、つねに自分の周囲に、もっともありふれた、もっとも慎ましい事物のなかに注目に値する要素を見出すことで、そうと見分けられるのです。創造家は美しい光景を気にかけません。つまり、彼には類稀で貴重な事物に取り巻かれる必要はないのです。彼には、発見を追い求めて駆けずり回る必要はありません。発見はつねに彼の手の届くところにあります。彼には、それに一瞥を投げかけるだけで十分です。見知ったもの、至るところにあるものが彼を促すのです。
~同上書P52
日常の、何でもない事物にこそヒントやチャンスがあるのだと。納得だ。ここからは、イーゴリ・ストラヴィンスキーの創造の術が読み取れる。
「あさきゆめみし」と空耳のように聴こえる(幻聴か?)フレーズを持つ第3曲クレドが美しい。
また、テノールのソロと合唱のやり取り、そこにトロンボーンの深い破裂音が絡む第4曲サンクトゥスの祈り。そして、終曲アニュス・デイにおける無伴奏合唱の崇高な歌!何より終結の儚さよ。
バーンスタインの恍惚の表情が目に浮かぶよう。