単に期待が大きかったせいなのかもしれない、かつて何度か聴いたヴァレリー・アファナシエフの実演は、僕には響かなかった。小難しい哲学を訥々と、また無益に語られるような苦痛の時間(?)だった。
リリースされたアルバムを聴く毎に、その素晴らしさに僕は大いに感動していた。だからあまりに期待が大き過ぎたのだ。アルバムには過分なコントロールがあったのかもしれないし、あるいは、レコーディングの念入りな推敲こそが彼の本懐なのかもしれない。
ブラームスの後期ピアノ小品集は最高だった。同様に、ベートーヴェンのディアベッリ変奏曲もまた見事だった。
ベートーヴェンの体力の限界に止めを刺した1826年11月末(?)の無蓋の牛乳運搬車でのウィーン帰還という無謀。
その12月は寒くじめじめして、こごえるように冷たかった。・・・(中略)やむをえず村の旅館で一夜をあかすことに・・・(中略)真夜中ごろ発熱の悪寒が始まり、それに激しい渇きをともなうから咳と、両脇の切りこむような痛みにおそわれた。熱にさいなまれつつ・・・(中略)病み衰えた彼は枠付き馬車にかつぎこんでもらい、やっとヴィーンに到着した際は、疲れきり、力も尽きはてていた。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築3」(春秋社)P1127-1128
セイヤー伝記に記される、一般的な認識の正否は横に置くとして、こういう事態がベートーヴェンの寿命を縮めたであろう事実に心が痛む。その後、再び近づくアントン・シンドラーのさらなるベートーヴェン像の偽造が後世にもたらした誤解も実に残念だ。
シンドラーは初め押しかけ助手として近づいた。しかし1年半(1822年11月~24年5月)ほどして、凡俗で、無思慮に行動し、仕事の妨げになる、として遠ざけられた。1826年12月、病が進行するなかでシンドラーはまた忍び入るように接近してきて、しかしベートーヴェンにはどうしても遮断するという気力もなく、なすがままに親切を受け容れた。それが仇となって、最後の看取りと死後の後始末に主導権を握られ、虚飾に満ちた言説を振りまかれて、誤った像を決定的にされた。
それは、彼が最重要書類を管理したに留まらず、伝記を書き遺したからである。一方1825年7月末から、グナイセンドルフでの2カ月は除いて、最後まで、同じく約1年半にわたって最大の側近であったホルツは後世にとってほとんど無名の存在となる。彼自身が何も遺さなかったからである。歴史は叙述されて初めて歴史となる。
~同上書P1132-1133
「ベートーヴェン像再構築」というタイトルの本意がようやくここで示されることになるが、この本の意義は途轍もなく大きい。ちなみに、1823年に完成した「ディアベッリ変奏曲」は、まさにアントン・シンドラーが秘書として仕えていたその時期のものだ。
・ベートーヴェン:ディアベッリの主題による33の変奏曲ハ長調作品120
ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)(1998.11.24-27録音)
シンドラーのあまりの凡俗さにベートーヴェンは嫌気が差したのだろう。
それにしても、あまりにも巨大で、あまりにも深遠な変奏曲が、凡事の雑多な中で生まれているのだから恐れ入る。それこそ武満徹の、「作曲しているそのときの状態は、絶対落ちこんだりしていなくて、高揚した気分だったはず」という言葉は決して間違っていないのだろうと思う。敬虔な第24変奏フゲッタの美しさ、そして、軽快な第25変奏の喜びを経て、第26変奏以降の底知れない透明感に僕は舌を巻く。最晩年のベートーヴェンの無心の、純白の世界がここに繰り広げられるのだ。中でも、第29変奏アダージョ・マ・ノン・トロッポの静かな苦悩。
アファナシエフは、ベートーヴェンの魂の讃美者だ。
彼の表現には作曲家の晩年の苦痛は投影されない。精神、魂の飛翔だけが主眼としてあるのみ。何という崇高さ、何という鮮烈さ。