ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィル ワーグナー ジークフリートの葬送行進曲(1978.3.31Live)ほか

ムラヴィンスキーの音は、独特だ。
一聴それとわかる。
金管群の咆哮の意味深さと音圧、そして、弦楽器群の一糸乱れぬアンサンブル。それだけとってみても奇蹟的。これほど厳しくも官能的なワーグナーがほかにあろうか。また、これほど集中力に富むワーグナーがほかにあろうか。
エフゲニー・ムラヴィンスキー、1988年1月19日火曜日午後7時20分死す。

アレクサンドラ・ミハイロヴナは、フィルハーモニーでの会葬ではスピーチをしないと言い張り、人々が彼との最後の別れに彼の音楽が聴けるよう望んだ。列席したのは、共産党政治局員のソロヴィヨフ、市議会のメンバー、当地の高官、モスクワからの文化省代表、ソ連全国からの指導的な音楽家、指揮者、作曲家だった。その中で最も数が多かったのはこれまで彼のために演奏してきた楽員たちだった。彼が横たわっている間ずっと、観客席の拡声器からはベートーヴェン、ブラームス、プロコフィエフ、ショスタコーヴィチ、チャイコフスキー、ワーグナーの彼のレコードが流れていた。この音楽は外にも流された。凍てついた厳寒のレニングラードの街には、彼が尽くした何万という人々が立ち、芸術広場やブロドスキー通りを一杯にし、入りきれなかった人々の群れはネフスキー大通りにまで達していた。
グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」(アルファベータ)P329

音楽によって世界に貢献したエフゲニー・ムラヴィンスキーは、自ら創造する音楽とともにこの世に別れを告げたようだ。

《ジークフリートの葬送行進曲》の旋律が流れるなか、柩が大群衆の待つなかへ運び出され、エヴゲニー・アレクサンドロヴィチ・ムラヴィンスキーはフィルハーモニーを後にした。葬列はムラヴィンスキーの人生にゆかりの場所であるニコルスキー大聖堂、国立音楽院、マリインスキー劇場を通り、いくつもの通りを抜け、冷たく凍てついたペテルブルク=レニングラードの美しい運河や広場を進んでいった。かつてフィルハーモニーで幾夜にも行なわれたように、この日も何列にも並んだ警官と軍人が巨匠に敬礼をした。街の中心を通る数キロにわたる最後の旅は、沿道に並んだすべての人々にとって感動深い思い出となった。近年には珍しく、交通も遮断された。音楽を世界にもたらしたひとりの人間への深い哀悼の静けさが街に漂っていた。
~同上書P329

何と「ジークフリートの葬送行進曲」!!まるで死した英雄が目を覚ますかのような「葬送行進曲」の色香と爆発。一方、色気の微塵も感じさせない、死の表出というより生の謳歌たる「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死の感動。

ワーグナー:
・ジークフリートの葬送行進曲~楽劇「神々の黄昏」(1978.3.31Live)
・前奏曲と愛の死~楽劇「トリスタンとイゾルデ」(1978.3.31Live)
・ワルキューレの騎行~楽劇「ワルキューレ」(1978.3.31Live)
・歌劇「タンホイザー」序曲(1982.1.31Live)
・第1幕への前奏曲~歌劇「ローエングリン」(1973.3.11Live)
・駄3幕への前奏曲~歌劇「ローエングリン」(1973.3.11Live)
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団

比較的速めのテンポで颯爽と演奏される「タンホイザー」序曲の活気。そして、「ローエングリン」第1幕前奏曲のロマンティックな陶酔と、猛烈な第3幕前奏曲の爆発力。もはやムラヴィンスキー以外の誰にも成し得ない孤高の境地。言葉を失う。

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