すべて偉大なものは単純である

僕はブートレグ、いわゆる海賊盤を集める趣味を持たない。ところが、いつだったかほんの一時期だけたとえそういうものでもこの演奏が聴けるならという思いで音盤を蒐集した時期がある。
八王子の市民自由講座では、ベートーヴェンの「革新」について僕なりの切り口でお話を展開しようと目論んでいるのだが、過去の録音をいろいろ聴き漁っている最中、フルトヴェングラーの、もう長く聴いていない「エロイカ」シンフォニーの海賊盤を見つけた。1953年のルツェルンでの実況録音。カップリングは十八番であるシューマンの第4交響曲。いずれも「超」のつく名演奏。おそらく20年前に初めて聴いたとき「ぶっ飛んだ」ように記憶する。でも多分、それ以来耳にしていなかった。ちょうどここのところ、ロベルト・シューマンについても彼の晩年の精神病について僕なりにいろいろと思いを馳せていた時でもあるので、タイミングよくじっくり耳にした。ワークショップZEROを終え、少しひとりで頭を冷やしつつ中心線をぶらさず保持するよう意識しながら。

・シューマン:交響曲第4番ニ短調作品120
・ベートーヴェン:交響曲第3番変ホ長調作品55「英雄」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ルツェルン祝祭管弦楽団(1953.8.26Live)

60年前のライブ録音。音は貧しい。しかし、鑑賞に堪えがたいものではない。厚みもあり、その灼熱の「うねり」によって魂がとろけそうになる(笑)。それは決して大袈裟なものでなく、どの瞬間にも音楽の女神が舞い降り、ときには音楽の魔物が憑依する。金縛りに遭ったかのように時が止まってしまうのである。だから、フルトヴェングラーの録音はどれも危険だ。

シューマンはグラモフォンの例のスタジオ録音盤と解釈はほぼ同じ。でも、さすがに実演のフルトヴェングラーは違う。そこに聴衆がいるだけで彼の音楽は一気に変化する。音楽は特定の者に対する「交歓の儀式」だ。少なくとも同じ会場に在る人々を意識してこそフルトヴェングラーは一層の能力を発揮した。「見えない」人々を対象にしての「音の缶詰」とは違うのだ。ゆえに、同じような解釈であろうと、「何か」が違う。終楽章コーダに向かっての一貫した推進力、勢い・・・、何と表現すれば良いのかわからないけれど。

ベートーヴェンの方も生気に満ちた、そして安定した音楽が奏でられる。自由でありながら、軸のぶれない安定感。ここでのフルトヴェングラーはもはや何もしない。おそらくベートーヴェンのスコアだけを頼りに、オーケストラの自発性にほとんど任せ、大事なポイントだけを押えてドライブする。真に肩の力の抜けた理想の「エロイカ」が現出する。

「すべて偉大なものは単純である」これは芸術家のための箴言である、というのは、何よりまずその「単純」という言葉が、「全体」という概念を前提としているからです。ここでいう「単純」さとは、「すべてを見通して」「突如としてこの一挙に」正しくその「全体」をつかむ、という意味です。
(フルトヴェングラーの1954年の論文より~芳賀檀訳「音と言葉」所収)

点を線として最適化する。人の歴史においても、記憶の糸をつなぐことで全体の意味が即座に理解できる。それによって自分自身を受容でき、結果的に変化と成長が起こるのである。フルトヴェングラーは音楽を通じてそのことを教えてくれる。


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