演奏家はある意味代弁者だと思うので、ブロッホが「こうなんだ」ということを書いていたとすれば、私は彼になり切って「こうなんだ」ということを出す。それだけのことです。どの作曲者であっても同じことで、その理解の仕方やニュアンスの付け方に演奏家の個性が出てくるのでしょう。演奏家はあくまでも作品なり作曲家、どちらか分かりませんが、そのどちらかになり切るしかない。
~インタビュー 庄司紗矢香
確かに舞台上の彼女は、いつどんな瞬間も巫女のようだ。そこにはエゴはない。
庄司紗矢香は6ヶ国語を自由に操るらしい。
言葉の壁を超える空間的拡がりの認知こそが彼女の持って生まれたセンスなのだと思うが、そのことは彼女の紡ぎ出す音楽を聴いても明らかだ。彼女の独奏は大らかで外向的、音調は実に神々しい。それは、極めつけの遠心力と言っても良いのかも。それならば、協奏曲の場合、必要なことは、指揮者と管弦楽にそれを中和するだけのセンスがあるかどうか。すなわち、類い稀なる求心力、である。それが、彼女を起用しての演奏の条件といえまいか。
ドミトリー・ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲。独奏部だけに限って言うなら「超」のつく名演奏である。外へと拡散して行く奔放な音の粒に対して、指揮者やオーケストラがいかに音の収斂を試みるかが鍵だが、残念ながらリス指揮ウラル・フィルの伴奏においては、求心力が弱い。
協奏曲第2番嬰ハ短調作品129は、作曲者の言葉通り、特に、庄司紗矢香のカデンツァに注目すれば良い。第2楽章アダージョの崇高な音に身を委ねれば、世界は彼女の奏する音によってひとつにつながる。終楽章アダージョ,アレグロも(少なくとも僕の見立てでは)管弦楽の力がいかんせん物足りない(とはいえ、楽章最後のホルンの透き通った音色は郷愁を帯び、とても美しい)。逆に、庄司のソロは何と生き生きと歌い、作品に内在する不安や抑圧という負のエネルギーを払拭し、見事に描き切る。
新しい協奏曲では、事実上すべてがソロ・ヴァイオリンで始まり、すべてがそのパートに凝縮されていて、まるでオーケストラがその伴奏をしているようです。
(ドミトリー・ショスタコーヴィチ)
~ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P326-327