
意気揚々とした浪漫の音がそこかしこから聴こえる。
キャリア初期のショスタコーヴィチの音楽は、どちらかというと明るく軽い。心から音楽を楽しんでいるように僕には思えるのだ。
父は歌をうたうのが好きで、「ああ、こんなにも激しくわたしが愛しているのは、あなたではない」とか、「庭の菊は涸んでしまった」とかいったジプシーのロマンスを好んで歌っていた。この魅惑的な音楽は、のちにわたしが映画の仕事をするようになったとき、おおいに役立った。
ジプシーのロマンスにたいする興味を、わたしは否認しない。そう、このような音楽を聞くや、激しい怒りを爆発させたセルゲイ・プロコフィエフ(1891-1953)とは反対に、そこに、なにも恥ずべきものを見ない。きっと、プロコフィエフはわたしよりももっとよい音楽教育を受けたのにちがいない。だがそのかわり、わたしは俗物ではない。
~ソロモン・ヴォルコフ編/水野忠夫訳「ショスタコーヴィチの証言」(中公文庫)P23
ドミトリー・ショスタコーヴィチの創造の源泉が垣間見える。同時に、(「証言」の真偽は別にして)暗に他者を否定する二枚舌の炸裂。
ショスタコーヴィチとの関係は気まずいものでした。一緒にいると、彼が作曲に使える時間を自分が奪っているのではないかと思ってしまうのです。
(ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー)
作曲者に対する畏怖と謙虚さの錯綜。
だからこそロジェストヴェンスキーの指揮するショスタコーヴィチの音楽は、客観的でまた美しい。
自由闊達なショスタコーヴィチの創造力。
「南京虫」の、いかにもショスタコーヴィチというアイロニーに満ちる音楽が見事だ。
要するに、マヤコフスキイのなかには、気取り屋、自己宣伝欲、贅沢な暮しへの渇望といったわたしの憎んでいるすべての特徴が集約していたと言える。肝心なのは、弱者にたいする軽蔑と強者にたいする卑屈さである。マヤコフスキイにとっては力が道徳律であった。彼はイワン・クルイロフ(1769-1844)の寓話のなかの、「強者にとってはつねに弱者が罪である」という一行を完全に把握していた。ただし、クルイロフは嘲弄をこめて非難するために語っていたのだが、マヤコフスキイはこの真理を真に受け、それに応じるように振る舞っていたのだった。
~同上書P429
白眉は、「日本の詩による6つのロマンス」作品21。
「古事記」の長歌や「万葉集」の歌を原詩にしての音楽には、暗い前衛的な雰囲気が醸されるが、若きショスタコーヴィチの、当時のドロドロした女性関係の官能が刻印される。
最初の妻ニーナと知り合った1928年に最初の3曲(「恋」「辞世」「慎みのない眼差し」)が書かれている。その後1931年末に第4曲「最初で最後」が作られ、タチャーナ・グリヴェンコが男児を出産した1932年4月に最後の2曲(「のぞみのない愛」「死」)が完成された。その翌月にはニーナと入籍し、この作品はニーナに献呈された。
~工藤庸介「ショスタコーヴィチ全作品解読」(東洋書店)P264-265
マースレンニコフの深く哀しいテノールが、生きることの苦悩を歌う。
ここでのロジェストヴェンスキーは、あくまで黒子に徹する。自我を抑制することが、ショスタコーヴィチ表現の鍵であるかのように。