フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル シューマン交響曲第4番ほか(1953.5.14録音)

オーケストラの音は「時代」とともに変わる。
その「時代」、誰が音楽的実権を握っているかどうかによって自ずと音は変わるということだ。

音はすなわち空気の振動である。
そして、人間は気の存在である。人は気に影響を及ぼす。同時に、人は気に影響される。

しばらくベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の「音」を聴いている。
彼らの「音」は音楽監督、あるいは常任指揮者の才能によって、こうも違うのかというくらい異なる。時代とともに音は洗練されて行く。一方で、大事なものが失われて行くという矛盾がそこには生ずるが、しかし、すべてが時代をとらえた結果であると考えると、フルトヴェングラーの、時代がかった、ディオニュソス的表現は、「火の戦い」を象徴する20世紀前半の顕現だといえるし、20世紀後半のカラヤンの、研ぎ澄まされた、どちらかというと外面的効果を狙った表現は、それだけ世界が精神性を喪失し、物質的なものを追求する結果の現れのようにも見える。しかし、アバドの音楽は、少しずつ精神的なるものを取り戻そうとした典型であるし、ラトルのそれは、目に見えない世界がようやく世界に普く広がる気配を示す時代であったからこそ受容できたものだったように僕には思える。

音楽というものの面白さ。
また、録音というものの興味深さ。

シューマン:
・交響曲第4番ニ短調作品120
・「マンフレッド」序曲作品115
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1953.5.14録音)

灼熱のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団。
晩年のフルトヴェングラーによる今更僕が何かを語るまでもない不滅の名演奏。
40年前、初めて聴いて以来、この曲に関してフルトヴェングラーのこの録音の右に出るものはないと僕は信じている。

ただし、この演奏の奥底に内燃するものは、不穏な戦いの音調であることは間違いない。
それは、人間の深層の、不屈の闘争心を掻き立てる音楽であり、演奏だということ。もちろん、同時に静謐な安寧、祈りの精神はある。強いて言うならそれは、「マンフレッド」序曲に強い。
嗚呼、壮絶なる、空前絶後の音楽よ。

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