
同時代を生きるものだからこそわかる場の気というものがあろう。
時が過ぎれば単にそれは思い出となる。
リアルを体験することがよく生きる鍵。
暗黒の夜空に浮かぶ数多の星々。
あるいは、白夜の、仄明るい光の世界の幻想。
夢か現か、その輪郭は実に曖昧だ。
形式的にはまったく自由です。それらは、いずれも慣習的なソナタ形式の図式にしたがっていません。
「スヴェンスカ・ダーグブラーデッド」誌、1923年3月のストックホルム遠征公演でのインタヴュー
~神部智著「作曲家◎人と作品シリーズ シベリウス」(音楽之友社)P174
作曲家のこの作品にまつわる言葉が的を射る。彼は常に「新しさ」を目指した。だからこそ、彼は創造の場において常に自分自身と闘っていたのだろう。
完成に近い状態にありながら幾度も自らの手で破棄されたと伝えられる交響曲第8番に関するエピソード。
そうしたなか、プロジェクトの鍵となる人物がにわかに現れる。ボストン交響楽団の名物指揮者、セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)である。1920年代後半、シベリウスの交響曲第3番や第7番をアメリカで取り上げて大成功を収めたクーセヴィツキーは、新作の演奏機会を作曲者に求めることにする。その手紙を受け取ったシベリウスは大変喜び、後に第8番初演の権利を彼に与えるのである。やがて作品の進捗状況をめぐり両者のやり取りが始まるが、新作交響曲に対するクーセヴィツキーの期待は作曲者に相当のプレッシャーをかけたようだ。シベリウスは彼との約束を果たすため、精力的に仕事を続ける。そして困難な作業の途上、第8番は部分的にだが「完成」の域に達したという。
~同上書P195
作曲者の苦悩が垣間見える。
ところで、セルゲイ・クーセヴィツキーによる思い入れたっぷりの交響曲第7番が美しい。
テンポの伸縮激しく、うねるこの表現は、指揮者の前時代的浪漫的体質の刷り込みだと思うが、何より冒頭から粘る、弦楽器のポルタメントに感応(コーダなど作曲者の阿鼻叫喚ともいえる激しさよ)。
また、シュネヴォイト指揮による交響曲第6番は、まるで無心の境地。
古い録音から感じられる企図のない純粋な響き。余計な力を一切加えず、ただひたすらシベリウスの音楽に向かう様。良い演奏だと思う。