フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン 第6番「田園」ほか(1954.5.15Live)

暗澹たる「田園」交響曲。
しかし、ここには得も言われぬ、筆舌に尽くし難い安寧が刻まれる。遅々として進まぬ、一粒の音に渾身の想いを込めて歌われる音楽は、終楽章コーダに至って人智を超えた透明な光を表出する。老境の侘び寂としか表現しようのない覚醒の境地。僕はあらためてこの音楽の凄さを思い知った。

ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがヘルマン・ヘッセに宛てた死のわずか半年前の手紙。

お手紙をちょうだいし、このうえない幸せと存じております。私どものコンサートにご来駕いただけるかも知れないと考えて、演奏旅行でふだんしばしば演奏しておりましたブラームスの名をプログラムからはずしましたことは、当然の措置でございます。
ついでながら、一度お訪ねしたいと思いつつ―忙しかったせいでしょうか、それともはにかみの気持からだったでしょうか―その思いを実行に移す機会を得ませんでしたこと、ほんとうに残念に思います。しかし、お目にかかる折こそありませんでしたが、もう長いこと私は心から貴下を敬慕してやまないものの一人です。
あいかわらず全人間的な魅力をたたえた「エンガディーンの体験」、厚く御礼申し上げます。

(1954年6月5日付)
フランク・ティース編/仙北谷晃一訳「フルトヴェングラーの手紙」(白水社)P298

ブラームス嫌いのヘッセの来場予定を事前に知り、あえてプログラムを変更したにも関わらず、遠方を理由にヘッセは結局コンサートに現われなかったのだとか。それにしてもフルトヴェングラーのヘッセに対する想いの深さが伝わる愛情深い内容だ。

すでに知っている海やフィガロを新しい形で再経験するばかりでなく、自分自身に、もっと若かったころの自分に、初期のさまざまな生活の段階にも、体験のわくの中で再会するのです。微笑をもってするか、嘲笑をもってするか、優越感をもってするか、感動をもってするか、赤面をもってするか、喜びをもってするか、後悔をもってするかは、問題ではありません。一般に、体験する人が以前の体験の形式や体験そのものに対して、優越感よりは感動あるいは赤面に傾くのは、老齢にふさわしいことです。特に、創造的な人間、芸術家にあっては、人生の最後の段階で、生涯の盛りのころの精力や強さや充実に再会すると、「ああ、自分はあのころなんと弱く愚かだったことだろう!」という感じを喚起されることは、ごくまれで、反対に、「ああ、あのころの力がなおいくらかでも残っていたら!」という願いを喚起されることでしょう。
「エンガディーンの体験」
ヘルマン・ヘッセ/高橋健二訳「幸福論」(新潮文庫)P158-159

果たしてフルトヴェングラーもヘッセのこういう文章に触発されたのだろうか。
あるいは、赤裸々に自らの内面を告白する等身大のヘッセに、晩年の体力、気力ともに衰えた自身の姿を投影したのだろうか。
かの「田園」交響曲も、第4楽章「雷雨、嵐」だけは実に激しい、荒れ狂う音響の中にあるが、他はいささか大人しく、暗い。

・モーツァルト:ピアノ協奏曲第20番ニ短調K.466
イヴォンヌ・ルフェビュール(ピアノ)
・ベートーヴェン:交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.5.15Live)

スイスはルガーノにあるテアトロ・クルザールでの実況録音。
完成度の極めて高い、悪魔的色気を振りまくモーツァルトのK.466は、今や有名な演奏だと思うが、ここには老練のフルトヴェングラーの、あくまで自然体の(しかし、音楽にのめり込む様子を示す)棒がある。何より素晴らしいのは当時55歳のルフェビュールの独奏。間違いなくフルトヴェングラーの勢いに感応し、普段の能力以上の力を発揮しているように見えるのである。第1楽章アレグロ冒頭、独奏の出から音が違うが、見事なのはカデンツァ!

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