フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィル モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」K.527(1954.10収録)

〈作品〉は〈人間〉を通して、〈人間〉は〈作品〉を通して、自分たちだけの力で、自らを〈虚無〉から引き出さなければならない。人類は、〈無神論〉の朝焼けのなかで永久に、〈自己自身の原因〉という不可能な亡霊に、今死んだばかりの〈神〉に、取り憑かれている。そうしてたちまち、詩の書けぬ詩人の苦しみは、創造することの絶対的必要性とその根源的不可能性のあいだで引き裂かれた、意識の普遍的な劇となる。
ジャン・ポール・サルトル/渡辺守章・平井啓之訳「マラルメ論」(ちくま学芸文庫)P192

死を数ヶ月後に控えた老指揮者は自らと闘っているように見える。
映像は後付けだといわれるが、その生気のない、ある意味人工的な(?)動きは、文字通り「音楽を生み出せぬ指揮者の苦しみ」を表わすように思えてならない。

1954年夏のザルツブルク音楽祭の記録。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるモーツァルトの歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527から重厚で悪魔的な序曲。
昔、初めて観たとき、僕は芯から感動した。動くフルトヴェングラーの姿に卒倒した。また、総天然色で登場する指揮者の容姿に感激した。
あれから40年が経過するが、確かにモーツァルトの音楽の威力は色褪せない。
ただし、フルトヴェングラーの指揮には今となっては多少の違和感はあるにはある。
果たしてこれほどデモーニッシュさを要求する音楽なのかと。

・モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」K.527
チェーザレ・シエピ(ドン・ジョヴァンニ、バリトン)
デジェー・エルンシュテル(騎士長、バス)
エリーザベト・グリュンマー(ドンナ・アンナ、ソプラノ)
アントン・デルモータ(ドン・オッターヴィオ、テノール)
リーザ・デラ・カーザ(ドンナ・エルヴィラ、ソプラノ)
オットー・エーデルマン(レポレロ、バス)
ヴァルター・ベリー(マゼット、バス)
エルナ・ベルガー(ツェルリーナ、ソプラノ)
ウィーン国立歌劇場合唱団
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1954.10収録)

しかし、それでも彼の生み出す音楽は別格だ。
その圧倒的な力とエネルギーに僕は拝跪せざるを得ない。
せめて序曲だけ、この序曲の映像だけでも永遠であらんことを。

フルトヴェングラーがザルツブルクで振った《ドン・ジョヴァンニ》は、パウル・ツィンナー監督によるカラー映画を含めて3種類が残されているが、1953年の録音が、7月27日、8月3日どちらの演奏かははっきりしない。またツィンナーの映画でも、最初から最後まで本当にフルトヴェングラーが振っているのかという疑問がある。
チェーザレ・シエピの回想によると、1954年夏の公演のうち、少なくとも2回、おそらく3回は映画に記録されたのだが、ドンナ・エルヴィラ役のエリーザベト・シュヴァルツコップの演奏が何らかの理由で使えなくなった。そこでドンア・エルヴィラをデラ・カーザに代えて、フェルゼンライトシューレで撮りなおすことになった。デラ・カーザはそのために呼ばれたのであって、お客の前では一度も歌っていない。そしてシエピの記憶では、デラ・カーザを呼んで行なった映画用の特別上演はフルトヴェングラーではなく、彼のアシスタントが振ったという。

ジョン・アードイン著/藤井留美訳「フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ」(音楽之友社)P144

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