
ディアギレフのために書かれたバレエ「牝鹿」の初演は成功したものの、評論家ルイ・ラロワが絶賛したことでプーランクはトラブルに見舞われた。
プレートルのプーランク「牝鹿」、「典型的動物」ほかを聴いて思ふ 「サティそっくりのひげの男の顔」が描かれた赤ん坊のガラガラを、プーランクとオーリックが連名でサティに送ったのだ。ただでさえ怒りっぽく偏屈なサティが、大嫌いなラロワの絶賛した二人の若者にからかわれたとなれば、いくら作品を認めていたところで、絶好も必至だった。このガラガラは、プーランクがポーカーのチップを買いに行った店で偶然見つけたものだったが、おかげでサティの存命中に交遊が復活することはなかった。
~久野麗「プーランクを探して 20世紀パリの洒脱な巨匠」(春秋社)P72
怒りっぽい偏屈は誰しもの身近にもいるだろうが、確かに冗談の通じない相手にやってしまった悪戯を後悔しても始まらない。そういう因果なのだ。
サティが少年フランシスに送った回答に書かれたフランク批判も、人を喰ったような表現だ。
追伸 僕は「有名」じゃありません。一介の50代の若者です。
~同上書P21
憂えるエリック・サティの、往々にして偏屈なタイトルの実験諸曲は、それでも革新的で美しい。
(作品はその人の人間性を超えたところにあるのだ)
サティの死後、ロベール・キャビイが未刊の作品を編集。主にそれらが収録された、「エチュード集」と題するアルバム。
どこかで聴いた懐かしいメロディがある。
憂鬱で偏屈な音楽もある。
風変りだが、極めて美しい音楽もある。(これぞ温故知新)
エリック・サティの実験精神は、すべてへの批判精神から生まれたもののように見える。
チッコリーニはサティの使徒だ。
エリック・サティは1925年7月1日、パリ14区の病院で逝った。(没後100年)
また、アルド・チッコリーニは1925年8月15日、イタリア王国はナポリに生まれた。(生誕100年)
デュトワ指揮モントリオール響のファリャ「三角帽子」&「恋は魔術師」(1981.7録音)を聴いて思ふ 「哺乳類の手帖(抄)」から。
私はあなたを〈しとめます〉ぞ、ラロワさん・・・。どうやるのか知りたければ、今に分かりますよ・・・。待っていなさい。
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墓の中にいる時間はたっぷりある。
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私の夢—あらゆるところで演奏されること、でもオペラ座はおことわり。
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私の《パラード》の中国人をラロワ氏に踊ってもらいたくない。
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《三角帽子》のほうが《パラード》よりましだ。こっちは田舎司祭のための中国帽だから。
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中国人に言わせると、ラロワ氏は性格があまりに黄色いということだ。
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ラロワはオペラ座の中国外に住んでいる。
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「近視になることによって、私は中国人になった」とラロワ氏は言った。
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何と!ドビュッシーはラロワ氏が偽物の中国人とは思わなかったのだ。
~エリック・サティ/秋山邦晴・岩佐鉄男編訳「卵のように軽やかに」(ちくま学芸文庫)P185-186
ほとんど東洋人への偏見の羅列だが、1世紀前の欧州はそんなものだったのだろう。
だからこそサティの音楽は風変わりでまた重いのだ(決して軽やかではない)。
