フィッシャー=ディースカウ ヴァラディ ハイティンク指揮コンセルトヘボウ管 ショスタコーヴィチ 交響曲第14番(1982録音)

彼は横たわっていた 彼のそこに置かれた顔は
うず高い枕の中で 蒼白く ものを拒んでいた
それ以来 世界は また世界についてのその認識は
彼の感覚から引きはがされ
冷ややかな歳月にまた戻っていったのだった

「詩人の死」
富士川英郎訳「リルケ詩集」(新潮文庫)P77-78

死を題材にしながらも、作曲者の意図するところは生と希望。
音楽は極めて厭世的かつ暗く重いが、その分、一条の光が射す一瞬の眩さがとても懐かしい。

初演にあたり、ドミトリー・ショスタコーヴィチは語る。

自分がかなり歳を取ったからでもなく、砲兵が言うように、まわりじゅうで砲弾が炸裂し、友人、知人を失っているからでもありません。非凡なソビエト作家オストロフスキーの言葉を思い出してみたいと思います。彼はこう言いました。「人生はただ一度だけ我々に与えられる。だから、あらゆる点で誠実に立派に生きるべきで、決して卑劣な行為に走ってはならない」。私はひとつには、自分の作品で死というテーマに触れた偉大な巨匠たちと論争しようとしているのです。ボリス・ゴドゥノフの死を思い出して下さい。ボリス・ゴドゥノフが死んだとき、一種の光が差し込み始めます。ヴェルディの「オテロ」を思い出して下さい。すべての悲劇が終わり、デズデモーナとオテロが死ぬと、我々も美しい静けさに包まれます。「アイーダ」はどうでしょう。主人公と女主人公の悲劇的な死を迎える場面で、晴れやかな音楽がその場を和ませます。
ローレル・E・ファーイ著 藤岡啓介/佐々木千恵訳「ショスタコーヴィチある生涯」(アルファベータ)P336

すべてが無に帰すことではなく、再生のための死であり、それによって魂の成長を喚起するのだと彼はどこかで知っていたのかも。方法は、無調を含むショスタコーヴィチ独自の真骨頂。
すべてに歌唱を伴う全11楽章という変則的な交響曲は、歌詞がスペインのガルシア・ロルカ、フランスのギヨーム・アポリネール、ロシアのヴィルヘルム・キュッヘルベケル、そしてドイツのライナー・マリア・リルケの詩によるものである点が重い。
音楽は境界を超える。そこには生もなく死もない。

ショスタコーヴィチ:
・交響曲第14番ト短調作品135(1980録音)
ユリア・ヴァラディ(ソプラノ)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バス)
・マリーナ・ツヴェタエワの詩による6つの歌曲作品143a(1982録音)
オルトルン・ヴェンケル(コントラルト)
ベルナルト・ハイティンク指揮ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団

第1楽章「深いところから」(ロルカ詩)の、フィッシャー=ディースカウの冷徹な、理知の歌唱に無情の思念を思う(彼の歌は音楽よりも詩を感じさせるところが素晴らしい)。
また、第2楽章「マラゲーニャ」(ロルカ詩)では、激動のうねる音楽にヴァラディの激情の歌唱が絡む様相が美しく、その後の第3楽章「ローレライ」(アポリネール詩)の二重唱に心が動く。
第4楽章「自殺者」(アポリネール詩)のチェロ独奏の悲哀の重み。あるいは、いかにもショスタコーヴィチ節の第5楽章「心して」(アポリネール詩)のシロフォンなど打楽器のシニカルな音に僕は異様に刺激される。何という妖艶さ!!それにしても第6楽章「マダム、ご覧なさい」(アポリネール詩)におけるディースカウの声色を変えた歌唱に、彼の表現の幅の限りない広さを思い、それを受けるヴァラディの見事な歌に感心する。
第7楽章「ラ・サンテ監獄にて」の魂を貫くような深み。ここでのフィッシャー=ディースカウは本当に巧い。
第8楽章「コンスタンチノープルのサルタンへのザポロージェ・コサックの返事」(アポリネール詩)では、作曲者の苦悩が刷り込まれたような弦楽合奏の荒れ狂う表情が素晴らしく、続く第9楽章「おお、デルウィーク、デルウィーク」(キュッヘルベケル詩)ではディースカウの嗚咽の歌が世界を覆う。

この録音の特長は、各詩を原語で歌っている点(原曲はロシア語以外の詩についてはロシア語訳を使用している)。

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