ワークショップZERO、ドイツ・レクイエム

brahms_requiem_barenboim.jpg「人間力向上セミナー」の簡単なホームページを作った。いろいろと悩んだ末、ネーミングは「ワークショップZERO」にする。ここでいう「0(ゼロ)」とは、何もないという意味ではない。インド哲学や仏教でいうところの「無」、「空」、あるいは「中庸」という意味に近い。「0(ゼロ)」は始まりであり、バランス(調和)でもあり、無限小という意味で「限りなく無限に近い」数字である。そのことが僕の知的好奇心を妙に刺激した。そう、いわゆる「無」という概念には宇宙全体が含まれており、その哲学的意味深さにちなんでいるのだ。今の時代こそ人々が「調和」に目覚め、各人が潜在的に持っている「無限の可能性」に気づき、そしてお互い協力し合って世の中を良くしていこうという意味を込め・・・。ただネーミングの由来をWeb上でわかりやすく説明するのは極めて難しく、今のところそのページだけはアップできていない。さて、どうするか・・・。

10月21日の滋賀短期大学での公開講座報告が学報に掲載されたようで、ご丁寧に3部ほどご送付いただいた。「楽しく興味深い語りと愛知とし子さんのピアノが印象的だった」という内容のコメントまでいただいており、素直に嬉しい。それに、(教養講座全体のアンケートなので、一概に判断はできないのだが)90%以上の受講者が「よかった」と感じていただけたようで、いろいろな意味でまた「やる気」、「勇気」をいただけたことにあわせて感謝します。

ブラームス:ドイツ・レクイエム作品45
ジャネット・ウィリアムズ(ソプラノ)
トーマス・ハンプソン(バリトン)
ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団&合唱団

20代の終わり頃一時期、ブラームスに恋焦がれるようにはまっていた時期がある。作品1のピアノ・ソナタから作品122の11のコラール前奏曲、それに作品番号をもたない全ての楽曲の音盤を集め、とにかく日々いつの瞬間(もちろん仕事以外の)も彼の音楽に浸っていた、そういう時代であった。なぜそれほどブラームスの虜になったのか・・・?
音楽はもちろんなのだが、どちらかというとその「人間」に興味をもったのが事の始まり。残された晩年の肖像写真を見ると、気難しく頑固そうな髭面が印象的で、とっつきにくそうな性格だろうとついつい思われがちだが、彼の伝記など文献を漁ると、ブラームスについて知れば知るほど、実は気弱で人一倍優しい人柄だったことが手に取るようにわかる。そう、「素直になりたくても気恥ずかしくて素直になれなかったんだろう」ことが、まるで当時の自分自身の「鏡」のようで、不思議な親近感を覚えたのだと思う。

ところで、この「ドイツ・レクイエム」。1856年の恩師シューマンの死、そして1865年の最愛の母の死に接し、それぞれの追悼のために書いた曲だといわれているこの音楽には、死者を弔うための祈りの気持ちはもちろんのこと、人間の生のそこはかとない悲しみが充溢している。青年ブラームスの創造した傑作。

第1曲「幸いだ、悲しんでいる人達は」(合唱)
何故なら彼らは慰められるに違いないからだ。(マタイ5、4)
彼ら、涙とともに種まく者は、喜びとともに刈り入れるであろう。
彼らは行き涙するけれども 義い種を背負っていれば、喜びとともに、
刈り入れた収穫の束を携えて来る。(詩篇126、5~6)
(対訳:丸山桂介)

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