朝比奈隆指揮大阪フィル マーラー 第6番「悲劇的」(1992.2.18Live)

大宇宙、大自然は規則正しい。しかしその規則は四角四面ではなく、円く、曖昧、臨機応変である。
真の芸術は曖昧でなければならないと思う。見る人、聴く人の感性によって解釈が多様でなければならないと思う。グスタフ・マーラーの音楽が(僕個人にとっては)時に妙に窮屈なのは、彼が再生する人のことを(ある意味)信用していないからだろうか。

そこまでやらないで、誰か優秀なオーケストレイションの人がもう一度あのスコアを整理して、ああいう書き方じゃなく、スコアリングを直し、注釈で「ここはディミヌエンド」とか「半分くらいの音にする」とかいうことをやって注意深い演奏をするようになったら、もっとマーラーの交響曲はよくなると思うんだけれど。
あれ見てるとね、「このとおりに弾けばいいんでしょ」という投げやりな気持ちに、ぼくがヴァイオリン弾きだったらなりますね。「となりの奴は弾くのをやめろ」とかね(笑)。そこまで指図されると、自分が音楽を創っていくという責任感みたいなものがうすくなる・・・。
だから、うちの楽員が、「この人はずいぶん我々を信用していないんですね」と言うのも、もっともなんですよ。たしかに信用してないんですね。彼が安心して自作を任せられると考えていたのはメンゲルベルクだったわけだ(笑)。まあ、指揮者としての経験とかいろんなことがあって、マーラーはああした書き方をしたんだろうけれど、つまりね、マーラは指揮者の個性や判断によって全然違った演奏になる(危険な)可能性のあることを知っていたわけです。

金子建志編/解説「朝比奈隆—交響楽の世界」(早稲田出版)P328-329

朝比奈のマーラーに対する分析は実に的を射る。それでは彼がマーラーを振るとき、自由に、思う存分暴れまわるのかといえば、さにあらず。朝比奈隆は、他の作曲家のとき同様、あくまで楽譜に忠実に音楽を描き切る。御大は次のように語る。

私たち演奏家は、最初抵抗があっても、マーラーの指示に従いながら演奏力をうんと高めなければならない。マーラーはオーケストラに高度の演奏力を想定している。
(朝比奈隆「指揮棒を持った作曲家」)
船山隆著「カラー版作曲家の生涯 マーラー」(新潮文庫)P93

幾度か実演を聴いた朝比奈のマーラーは、彼らしい不器用な無骨さの中に、とても繊細で、また集中力に富む瞬間が多発する名演奏ばかりだった(少なくとも僕が聴いた限りでは)。

・マーラー:交響曲第6番イ短調「悲劇的」
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1992.2.18Live)

大阪フェスティバルホールにおける第262回定期演奏会の記録。

おそらく当日の会場の聴衆は途轍もない感動を味わえたのではなかろうか(終演後のいつものような怒涛の拍手喝采、歓声がそのことを物語る)、そんな印象を持つマーラー第6番。やはり楽章を追うごとに生気満ちる音楽は、第3楽章アンダンテ・モデラートが白眉か。ちなみに、終楽章アレグロ・モデラート―アレグロ・エネルギーコは、例の、英雄を倒す運命の打撃の象徴として打たれるハンマーが意味深い響きを持ちつつも若干の乱れがある点が惜しい。しかし、ここは朝比奈のうなりと共に聴く者に衝撃を与える。
朝比奈御大がこの交響曲を以後コンサートで採り上げなかったことが残念でならない。

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