昨年、カイヤ・サーリアホの歌劇「遥かなる愛」(演奏会形式)を聴いた時、その母性に溢れた音楽に僕は感動した。強音と弱音の対比も素晴らしいながら、音楽は常に前を向き、しかもその音響によって聴衆のすべてを包み込もうとする力に満ちていることに心底動いたのである。
私は子供の頃にヴァイオリンを弾いていて、熱中したヴァイオリン協奏曲がたくさんありました。だからこそ、この分野に踏み入ることが怖かった。ルーボーの本を読んで、自分がいいと思ったことをやればいいんだとわかったんです。
~SICC17ライナーノーツ
マーティン・アンダーソンとの対話の中で、ギドン・クレーメルを独奏者に据えた「グラール・テアトル」の成立事情についてサーリアホはそう語っている。
何事も然り。比較を怖れず、「いいと思ったこと」をただひたすらやり続けることが鍵。
鋭利な刃物のようなクレーメルのヴァイオリンに対し、サロネンによる伴奏の温かさ。
独奏部が作曲者の「想い」であるとするなら、管弦楽部はその思考を包括する大宇宙だ。切れ目なしに歌われる2つの楽章にはそれこそ「遥かなる愛」がある。
カイヤ・サーリアホ:
・グラール・テアトル
―第1曲デリカート
―第2曲インペトゥオーソ
ギドン・クレーメル(ヴァイオリン)
エサ=ペッカ・サロネン指揮BBC交響楽団(1996.6録音)
「魂の城」のそもそもの発想の源になったのは、それぞれ違う種類の愛を歌った5つの歌でした。
~同上ライナーノーツ
また、ドーン・アップショウを独唱者に起用した「魂の城」のうねりの妙。それぞれの歌詞はヒンドゥー教の伝統や古代エジプト世界からとられているという。
ひとつひとつ音符に思いを詰め込んでゆく様に、サーリアホの内にあるマーラー的抒情とアイロニーを思う。
・魂の城
―第1曲「蔓植物」
―第2曲「地に」
―第3曲「蔓植物」
―第4曲「精霊を押し戻すために」
―第5曲「フォーミュラ」
ドーン・アップショウ(ソプラノ)
フィンランド放送室内合唱団のメンバー
エサ=ペッカ・サロネン指揮フィンランド放送交響楽団(2000.6.1&2録音)
すべての源は大地と、そこに根付く植物にあるのかも。何より音楽は深遠で暗い。ここでも、サロネンによる煌めく管弦楽伴奏が肝になる。名曲だ。
さらに、アンッシ・カルットゥネンを独奏に据えた「アメール」の前衛的神秘。音楽は終わりなく、どこまでも続く・・・。
「アメール」というのは灯台のように海上で目標となる「航海目標」「航路標識」のことで、一種のメタファーです。作曲を始める時に絵を描くことがよくあるんですが、この作品では、チェロが一種のボートになって、エレクトロニクスとアンサンブルのこの海を様々な方向に動いていく、そんなイメージを想像していました。
~同上ライナーノーツ
・アメール
―第1部「リベロ、ドルチェ、ミステリオーソ」
―第2部「センプレ・モルト・エネルジーコ、マ・エスプレッシーヴォ」
アンッシ・カルットゥネン(チェロ)
エサ=ペッカ・サロネン指揮アヴァンティ!室内管弦楽団(1998.6.29録音)
人生という航海において、自分自身こそが軸なんだということをあらためて確信する。
軸がぶれなければ多少の道草はあり。心配することなかれ。
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>人生という航海において、自分自身こそが軸なんだということをあらためて確信する。
同感です。
宗教で分派が絶えないのも同じ理由からなのだと思います。
>雅之様
>宗教で分派が絶えない
アドラーの言う「共同体感覚」を失った人間の分離意識が生んだ結果だと僕は考えます。
おっしゃるとおりです。宗教とはまさに「パラドックス」そのものです。
地球はひとつの生命体と考えるほうが、宗教よりも余程無理がないと、心底感じています。
>雅之様
>地球はひとつの生命体
間違いありません。
長い間、人間は傲慢過ぎたのだと思います。