アルバン・ベルク四重奏団 ベートーヴェン 弦楽四重奏曲第7番ほか(1989.6.13Live)

緊急事態宣言により実演に触れることのできる機会がほぼなくなった。
今や音楽はやっぱり耳で見て、目で聴くに限ると考える僕にとって、それは人生の大変な機会損失だが、それならばバーチャルで相応の体感をいかにするかを考えねばならない。

音盤をいかに楽しむか。
バーチャルをどのように生かすか。

かつてインタビューでギュンター・ピヒラーは次のように語っていた。

私たちは1日おきにコンサートをやりました。となれば、当然、完全性は失われます。でも、一番重要なこと、すなわち音楽的表現というのは、録音時のプレッシャーによって損なわれたりしません。
(ギュンター・ピヒラー/許光俊訳)

完全性よりも音楽的表現のゆらぎの方が重要だと彼は言うのである。

スタジオ録音でのときと同じくらい完璧に弾かなければいけない楽章もあるし、熱気とか緊張のほうが大事で、そんな必要のない楽章もあるということです。まあ、でも別の問題もあるのですよ。聴衆のために演奏されたただ1回だけの出来事(体験という意味もある)がライヴ・レコーディングによって繰り返し得るようになるのです。
(ギュンター・ピヒラー/許光俊訳)

音楽の躍動感、一回性、一期一会、いろいろな言葉が思い浮かぶ。
アルバン・ベルク四重奏団のベートーヴェン全集再録音は、ウィーン・コンツェルトハウスでのライヴ録音だった。四半世紀余り前、初めて音盤を聴いたとき、音楽の持つ生命力の確かさと、曖昧なゆらぎに僕は欣喜雀躍した。確かに前のスタジオ録音のときの先鋭さと現代的即物性は回避されているように感じられるが、何より音が温かい。

ベートーヴェン:
・弦楽四重奏曲第12番変ホ長調作品127
・弦楽四重奏曲第7番ヘ長調作品59-1「ラズモフスキー第1番」
アルバン・ベルク四重奏団(1989.6.13Live)
ギュンター・ピヒラー(第1ヴァイオリン)
ゲルハルト・シュルツ(第2ヴァイオリン)
トマス・カクシュカ(ヴィオラ)
ヴァレンティン・エルベン(チェロ)

人間はどこから来て、また、どこへ行くのか。
古今東西あらゆる学問を吸収しようとしたベートーヴェンの意識は、常に新たな答を探し求めていたのだろうか。最晩年の弦楽四重奏群は、いわば長年探し求めた問いに対して見つけた答の音化だったようにも僕は思う。

第12番変ホ長調作品127の、覚醒した、音を失った男の透明な世界をアルバン・ベルク四重奏団は情感を込めて歌う。第1楽章マエストーソ―アレグロの喜びと希望、そして第2楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポ・エ・モルト・カンタービレの持つ高次の思念の顕現が素晴らしい。

明らかに無意識の中でたくさんのことが起きています。瞑想的な楽章を私たちは言わば別世界の中で演奏しています。だから、私たちは演奏している間、「私たちはこうやると取り決めたっけ? これで正しいのだろうか?」などとはもはや考えません。
(ギュンター・ピヒラー/許光俊訳)

一層優れているのは、「ラズモフスキー第1番」作品59-1。特に、第3楽章アダージョ・モルト・エ・メストの哀感湛える歌に心が震える。第1楽章アレグロは、思い入れたっぷりの旋律が心に迫る。

この日のコンサートは、ロシア貴族のガリツィン公爵の依頼で作曲された3つの四重奏曲の第1である12番とラズモフスキー伯のために書かれた3つの四重奏曲の第1である第7番という組み合わせ。ベートーヴェンが、貴族の後ろ盾の中にあり、生活のために音楽を懸命に生み出そうとしていた様子が明確に想像できる。
音楽は生きる術であり、また生きる糧だ。

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