
ショスタコーヴィチの24の前奏曲とフーガ。
バッハが妻の死を契機に創作したシャコンヌの木霊。
そこには、体制に飲み込まれた国家にあって、汚れた魂を清らかにせんとする力が漲る。
キース・ジャレットのジャンルを超えた挑戦。
バッハのゴルトベルク変奏曲を聴いたとき僕は痺れた。
彼の弾くショスタコーヴィチを聴いて、僕はもっと痺れた。


まるで「ザ・ケルン・コンサート」を髣髴とさせる、いかにも即興風のショスタコーヴィチ。
これこそが作曲家の魂からの慟哭、あるいは愉悦の発露、あるいは慈悲の顕現ではないか。

「もう一人のショスタコーヴィチ」は、室内楽(1948年以降で12曲の弦楽四重奏曲)、ピアノ音楽(24の前奏曲とフーガという長大な連作)、歌曲をつうじて語る、警句が得意で謎めいた、密かな情熱を持った人物だった。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P270
脳卒中による左半身麻痺のため演奏活動から退いたことが実に残念だが、巨匠も今年80歳を迎える。ショスタコーヴィチの、バッハを規範にしての信仰告白のような曲集は、体制への反旗であり、また、自身のピアノ音楽の、様々なイディオムの最終回答のようなものだが、ジャズの匂いを放つキースの演奏を僕は好む。
作曲家の好んだ様式のひとつは「絞首台上のダンス」とでも呼べるようなもので、ほとんどポルカのようにはしゃぎ回る音楽が、不可解なほど喜びながら死に直面する孤独な人物を表現する。
~同上書P270
第15番変ニ長調など、権力者を揶揄するような、ほとんど「絞首台上のダンス」を髣髴とさせる音調に心が躍る。
引用、可憐な旋律、死の舞踏などなど、音楽の宝庫。
ただし、曲集全体を通して内側に点るのはピアニストの静けさだ。
キース・ジャレットならではの「曖昧」な演奏は、賛否両論あれど、絶妙な揺らぎ、音楽の軽快さの裏側に秘めた深遠さに、本性からの慈心の発露を思う。