「朝比奈先生とわたし」と題する、御大との思い出を語った実相寺昭雄さんのエッセイが面白い。
ブルックナー選集の収録ディレクターを、朝比奈座付きの走狗として、舞台の上や裏で吠えていたわたしに、先生は一言、ブルックナー録音のコツを伝授して下さった。
「ブルックナー休符のときが、指揮者は一番動いているんですな」
まさに、親方の至言であった。それで、カメラ割の軸は決まったのである。その軸が決まったのである。
~TFMC-0005ライナーノーツ
ブルックナー休符こそがブルックナーの本質であり、本懐であることをさすがに朝比奈隆は見抜いていた。しかも、「そのとき」にこそ指揮者が一番動いているとは。
新しい発見に僕は膝を打った。
朝比奈隆のブルックナーは不滅だ。
そのキャリアの最初の頃から、すでに彼はブルックナーの精神を「正しく」捉えていた。
カトリック教からすると、ブルックナーの精神性の中には常に輝かしい楽観主義と痛ましい罪の意識がまざり合っている。それゆえに、そこには「陰鬱な気分の流れが何とも言いようのない心の高まりと同様に溢れている」(クルト)。確かに、生の深遠なる秘密との根本的な係わりが、修道士の生活形体の基本的特徴である。「私が生れ出た暗黒よ、私は汝を、世界の境界をなしている炎よりも愛する」(リルケ)。深い憂慮感は不自然なまでに厳しい生活態度によって強められ、また近代的な大都市の真只中で個々人に恐ろしく押しよせてくるあの苦痛に満ちた孤独によって強められた。そこからまさに、一本の道、休みなく躍動する時代の意志の知性には理解しがたく、また反した道が、あの神秘的な「否形象的山岳」(ロイスブルーク)へ通じているのである。
ロベルト・ハース/井形ちづる訳「ブルックナーと神秘説」
~「音楽の手帖 ブルックナー」(青土社)P186
孤独こそが、ブルックナーに「全休止」という技を教えたのではなかろうか。
1973年7月24日、東京文化会館での実況録音。
朝比奈隆、65歳のときの記録。
・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(原典版)
朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団(1973.7.24Live)
70年代の朝比奈隆の指揮には、独特の熱狂がある。晩年の神々しいそれとは異なる、いかにも人間らしい「熱」がある。
いまだ朝比奈芸術を発見しない公衆の中にあって、我こそは朝比奈音楽の最初の信奉者だと言わんばかりの興奮がある。
第1楽章序奏アダージョから得も言われぬ神秘性。第2楽章アダージョの大自然を逍遥するブルックナーの楽観。何より終楽章の、特にコーダ(新日本フィルの金管セクションがコラールに参加しているのだという)における確信に満ちた解放。朝比奈隆でなければなし得ない最高のブルックナーがすでにここにはある。