ベートーヴェンは、自らの資質としてはボンは狭いとの思いが次第につのり、グルックとモーツァルトのウィーンへ行きたいという切望にとりつかれた。公的にもマリア・テレジアの末息であったマクシミリアン・フランツの支援もあった。要するに、ベートーヴェンの願いはモーツァルトのもとで修業をつむことであった。
~藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P287-288
最初のウィーン訪問時にベートーヴェンはモーツァルトとの邂逅を果たしたものの、母の病気のため滞在はやむなく短期間となり、モーツァルトの教えを仰ぐには至らなかった。しかしながら、ベートーヴェンがモーツァルトを尊敬し、音楽家としての模範としたことは間違いない。例えば、音楽史上屈指の名作「魔笛」の精神を「フィデリオ」、否、「レオノーレ」が受け継いでいることは、第1稿を聴けば一聴瞭然だ。決定的な違いは、「魔笛」がメルヘンであり、「レオノーレ」が現実ドラマである点であり、それを除けば、思想的にも音楽的にも「レオノーレ」は「魔笛」と同一線上にある傑作であろう。
カトリック教徒として洗礼を受けたベートーヴェンは、カトリック教否キリスト教を超越した「父なる存在」を生涯信じていた。特に後年のベートーヴェンの神に対する認識は、東洋関係の書物から強い影響を受けていることが、多くの資料によって明らかである。
~同上書P47
宗教に限界があり、それを超越した信仰を目指した点は、後年のリヒャルト・ワーグナーも同様。ベートーヴェンやワーグナーの音楽にある崇高な原点は、思考という枠を超えたものであり、例えば、交響曲第9番の有名な「歓喜の歌」もより深遠な、世界の統一、天人合一を謳うものであり、「パルジファル」最後の「救済者に救済を」という意味深な言葉についても、宗教という枠を超えろという示唆を含むように僕は思う。
(シラー著「モーゼの使命」より)
“私はあるがままにある”。
“私はすべてであり、現在あるところのものであり、かつてあったところのものであり、これからあるであろうところのものである。死すべき人間は一度も私のヴェールを取り除いたことはない”。
“全能者はただ一人自分自身で存在し、すべてのものが存在できるのもこの唯一者によってである”。
~同上書P48
ベートーヴェンが上記書籍から抜粋して、ガラス付きのフレームに入れ、机上に置いておいた言葉たち。それは彼が、魂が永遠であることを認識していて、解脱を求めんとした証左でもある。
第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポ,ウン・ポコ・マエストーソから何と溌溂とした明朗な音楽なのだろう。宇宙生成の物語が、混沌からではなく、もともと調和にあったことを示すような理想の音。また、第2楽章スケルツォの推進力に殊に感動し、第3楽章アダージョ・モルト・エ・カンタービレの歌に僕は目を瞠る。
圧巻は終楽章の合唱!!!特に、コーダの情熱の発露はいかばかりか。
トスカニーニのベートーヴェンの中でも随一の演奏。