ハイドシェック ベートーヴェン ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」ほか(1989.9.22Live)

ベートーヴェン曰く “ゲーテの詩は、その内容だけではなく、そのリズムによって力強く私を動かします。精霊たちの手によってより高い秩序に築きあげられたかのような、またその中にハーモニーの秘密を潜ませているような、そうしたゲーテの言葉に合わせ、刺激され作曲したい気持ちになります”と。しかしベートーヴェンが世界の像を写す文学の最高の表現を見いだしたのは、ゲーテではなくシェークスピアでした。これこそ知らるゝ如く「ベートーヴェンの偶像」でした。
(エルンスト・ベルトラム「1927年のベートーヴェン生誕100年記念講演」)
藤田俊之著「ベートーヴェンが読んだ本」(幻冬舎)P62

ベートーヴェンの遺品の中でシェイクスピア作品では唯一「テンペスト」が残されていた。
エリック・ハイドシェックの弾くピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」。愛媛県宇和島市での奇蹟の実況録音。

まさに鬼神が乗り移ったかと思われるほどの凄絶さである。

宇野功芳さんのこの言葉に僕は飛びついた。
そんなすごいピアニストがいるのかと、当時、リリースされた音盤に飛びついた。一聴、確かにのけ反るほどの、かつて体験したことのない緊張と憧憬が音楽の中にはあった。以後、僕は、このピアニストが来日するたびに実演に触れた。幾度か聴いた「テンペスト」は評判通りだった。

・モーツァルト:ピアノ・ソナタ第12番ヘ長調K.332
・ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第17番ニ短調作品31-2「テンペスト」
・シューベルト:即興曲第3番変ロ長調作品142-3 D935-3
・ドビュッシー:版画
―第1曲「塔」
―第2曲「グラナダの夕べ」
―第3曲「雨の庭」
・ヘンデル:組曲第2番~アダージョ
・ヘンデル:組曲第9番~クーラント
エリック・ハイドシェック(ピアノ)(1989.9.22Live)

ハイドシェックの演奏は、自由でまた確信的だ。音楽の流れに魂を委ね、湧き出でる音波でもって聴衆をノックアウトする。音楽は高尚で粋、それでいて、(少なくとも僕が幾度か見た)ステージでの振る舞いは気取ったものでなく、サービス精神満点のもの。すべてが新鮮だった。

モーツァルトのソナタのあまりの美しさ。
ひょっとすると彼の演奏は、(学究的には)モーツァルトの枠を超えてしまっているが、実際、モーツァルトがこれを聴いたら快哉を叫んだのではないかと思わせるほど激しく、また優しく、そして交響的だ。
煌めくシューベルトの即興曲。さらには、ドビュッシーの「版画」へと続く。
いかにもハイドシェックというドビュッシーに僕は拝跪する。

ハイドシェックをホテルに送る途中、「ドビュッシーも素晴らしかった。『雨の庭』をあんなふうに弾いた人を知らない」というと、「あれは、小さな子供が自転車を買ってもらって、それが嬉しくて母親の止めるのもきかずに雨の庭で走り回っている、そんな曲なんだ」そう説明しながら、路上で自転車を漕ぐまねをした。
宇神幸男「双面のハイドシェック」
~TECC-28036ライナーノーツ

なるほど彼のイマジネーションは、常人のものとは明らかに違う。
情景を思い、音楽を聴けば確かに「雨の庭」だと感じとれる。それにしても宇神さんの報告が興味深い。

トーストと紅茶の朝食。紅茶はこぼすし、トーストにジャムを塗るのもおぼつかない。井上氏宅で靴を脱ぐ際も、紐を解くのにひどく時間がかかった。指揮者のマタチッチもそうだったというが、ハイドシェックの不器用ぶりも桁はずれで、これがあの超名演をした人だろうかと不思議な気分にさせられた。
~同上ライナーノーツ

天才は得てして俗事には疎い。そういうものだ。
たぶんアンコールに弾かれたであろうヘンデルの、浪漫伴う哀感がハイドシェックらしくて素敵。

ちなみに、初発のCDには、この日アンコールで奏されたストラヴィンスキーのソナタ第1楽章は収録されていない(特典としてシングルCDが希望者?あるいは抽選?で贈られたと記憶する)。

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4 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。このテンペストをきいてみました。
これまでこの曲を幾多のピアニストで聴いてきたと思うのですが、いつも何か満足できない気がしました。この曲の潜在能力はこんなものではない、というような…それがこのハイドシェックの宇和島ライブを聴いて払拭できた感があります。怒濤さかまく波しぶきや吹きすさぶ雨風が顔を打つのを感じるような気がしました。かなりデフォルメされた演奏なのかもしれませんが、予期せぬ音の間や速度の変化が説得力を持って、嵐のように人間に襲いかかる過酷な運命と、翻弄されながらも可憐に立ち向かおうとする人間…のようなイメージが湧きました。どうしたらこんな弾き方ができるのか、やはり「雨の庭」についてが語っているように、「テンペスト」でもハイドシェックの頭の中に明確なイメージや意図があり、それが演奏に表現されているのでしょうね。ルービンシュタインが「それでいいんだよ。」と言ってくれて本当によかったです!
 このような稀有な演奏とピアニストに出会わせていただき、ありがとうございました。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ハイドシェックの宇和島ライヴを聴いてくださりありがとうございます。
いやはや、30年前、僕はこの演奏に出会い、エリック・ハイドシェックに目覚めました。以後、東京で公演があるときはできるだけ実演に触れるようにしましたが、幾度か演奏された「テンペスト」は本当に格別なものでした。相当意志的な演奏ですが、これぞベートーヴェンであり、最高のピアノ芸術だと思います。若き日に録音したベートーヴェンのソナタ全集や10年ほど前の後期ソナタ集などもお勧めなのでぜひ聴いてみてください。

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桜成 裕子

岡本 浩和 様

 ありがとうございます。ぜひ聴いてみたいです。これまでのご紹介で18番や後期3曲に接しました。素晴らしかったです。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ハイドシェックは20年ほど前に作品101&106、そして作品109, 110&111の2枚をpianovoxからリリースしていて、それがまた超名演奏なのですが、現在は廃盤のようです。中古で見つけられたらぜひ手に取ってみてください。

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