時折リヒャルト・シュトラウスを思わせる咆哮する管弦楽。
なるほど、「影のない女」を髣髴とさせる音楽は真に素敵だ。
しかし、その物語はどこか非現実的。
いま一つ脈絡に欠ける、というよりさして面白いとも思えない展開が、その音楽の素晴らしさを残念ながらスポイルし、この作品をメジャーなものに押し上げることなくここまで来たのかも。
サミュエル・バーバーの歌劇「ヴァネッサ」は、1905年頃の北方の町を舞台とする。果たしてそれが、いわゆる「血の日曜日事件」を引き起こしたロマノフ朝のことであるのかはわからない。しかし僕には、どうしてもその出来事が連想されてしまう。
皇帝が神の代弁者であると未だ信じられていたロシア帝国にあって、よもや十数年後に革命が起こるとは支配層の誰もが思いもよらなかったであろう分岐点。
後になって、あれがそうだったのだと気づき、あのときこうしておけば良かったと後悔するのが常。一部の一瞬の判断が未来を変える。人間の歴史というのは不思議なものだ。
ところで、「ヴァネッサ」において、アナトールという刹那主義の青年は非常に重要な役割を果たす。彼は今目の前に出されたもののことしか考えられず、そしていつも楽な方を選ぶ。結果、周囲はそれに翻弄される。何という無責任さ。
しかし、今の世界の人々も長い視点で見たならば、多くが同じように短絡的なのではないのか。ひょっとすると、バーバーも、そして台本を書いたジャン・カルロ・メノッティも世界に対する警告の暗喩としてこういった作品を生み出したのではないのかとさえ思える。
世界がいまだ同性愛者に対して不寛容であった時代。
クラシック音楽とゲイ文化のつながりは、少なくとも19世紀最後の何年間かにまで遡る。当時、ロンドンのヴァーグナー公演の夜ともなると、オスカー・ワイルド風の愛好家たちが集まってきて、襟の折り返しに緑のカーネーションをつけた。見慣れない新人を見つけると、ゲイの男たちは「音楽やっているの?」と聞いた。20世紀が進むと、音楽院やコンサート・ホールは、仲間たちにうまく溶け込めない内向的な少年たちでいっぱいになった。クラシック音楽がゲイの若者たちを惹きつけたのは、そうした音楽が自由に浮遊するような感情の力を持っていたからである。たいていのポップ・ソングが現代の少年と少女のあいだの愛やセックスをはっきりと表現しているのにたいして、オペラは古風で様式化されたやり方でロマンスを表現し、器楽曲は言葉にできない情熱を伝えた。
~アレックス・ロス著/柿沼敏江訳「20世紀を語る音楽2」(みすず書房)P433
まさに音楽の、自由に浮遊する感情の力を利用してのバーバーとメノッティの共同作業。
・バーバー:歌劇「ヴァネッサ」作品32
エリナー・スティーバー(ヴァネッサ、ソプラノ)
ニコライ・ゲッダ(アナトール、テノール)
ロザリンド・エリアス(エリカ、メゾソプラノ)
レジーナ・レズニック(老男爵夫人、メゾソプラノ)
ジョルジョ・トッツィ(老医師、バス)
ジョージ・チェハノフスキー(ニコラス、バリトン)
ロバート・ネイジー(召使、テノール)
ディミトリ・ミトロプーロス指揮メトロポリタン歌劇場管弦楽団&合唱団(1958.2&4録音)
第4幕、結婚したヴァネッサとアナトールがパリの新居に向かう場で奏される「間奏曲」の、ハープを伴奏に歌われる木管の哀しげな旋律の美しさ。あるいは、終わり間際の五重唱の恍惚、また、幕切れのヴァネッサとエリカによる「さようなら、エリカ」の、エリカの心情を見事に表現する管弦楽の妙。
作曲家バーバーの真骨頂、そして指揮者ミトロプーロスの巧さ。
誰がどういう時代にどこで生み出した作品なのか?
歴史をひもとき、空想の中で聴く音楽とは何と面白いことだろう。
ブログ・ランキングに参加しています。下のバナーを1クリック応援よろしくお願いいたします。
>世界がいまだ同性愛者に対して不寛容であった時代。
バーバーのほかに、ちょっと思いついただけでも、ヘンデル、チャイコフスキー、ラヴェル、サンサーンス、バーンスタイン、コープランド、グレインジャー、プーランク・・・(音楽以外では、ダビンチ、プルースト、コクトー、オスカー・ワイルド・・・)、
芸術の才能で、確実にゲイは身を助けていますね(笑)。
>雅之様
>芸術の才能で、確実にゲイは身を助けていますね(笑)。
ホモセクシャルというのはどうやら創造性に優れているようです。並べていただいた人たちを見ても、天才といわれる音楽家の中でも突出した何かがありますね。明確に説明はできないですが。