19世紀末を席巻した、リヒャルト・ワーグナーという大いなる存在に反発したフリードリヒ・ニーチェ然り、あるいはクロード・ドビュッシー然り、彼らの芸術は孤高の、普遍を獲得している。学ぶことは、知識を増やすことではなく、むしろ謙虚に、余計なものを削ぎ落していくことなのだと僕は思う。
当今では、あらゆる音楽家は、そしてまた芸術家は、一人ひとりが別ものです。きわめて個人的なのです。彼らがいちばん何に心を砕いているかといえば、影響というものが自作に一切露呈しないように、細心の注意を払うことなのです。
すぐれた作品に対する称賛の気持は伏在しています。いや、それどころか、当節以上に称賛者の多かった時代というものはないほどですよ。称賛は熱狂の域に達してさえいます。しかし、まったく傾向のちがっているような二つの作品を、同時に、かつ熱烈に、称賛することもできるわけですから、称賛者という言い方は使えても、お弟子という言い方は使えません。もうお弟子というものはありません。
「ヴァーグナーの影響力」(1908)
~杉本秀太郎訳「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社)P275-276
もはや先人の影響など不要なのだと(隠すことなど考えるなと)ドビュッシーは断言する。また、革新を武器に攻めよとドビュッシーは言う。
自らの心象風景を具に描く彼の音楽は、何て心地良い美しさを醸すのだろう。
鮮明な音像に、淡くぼんやりと描かれる音調が交錯し、何とも不可思議な、筆舌に尽くし難い音の楽が現れる様子に、僕はいつも恍惚となる。
夢か現か。クラリネットの抒情的な音色がオーケストラと見事に対話する様に、ドビュッシーが誰の弟子でもない、唯一無二の芸術家であるという所以を思う。ここでのブーレーズの指揮は、相変わらず知性に溢れる、計算された造形を描くものだ。
バレエ音楽「遊戯」の、静かながら法悦のうなりを上げるときの官能は、まさにうねる人体と同期する魔法。そして、圧倒的で神秘的な、原型となる海の大欲を描写するドビュッシーの傑作を、これほど敬いを込め、リアルに再生した指揮者が他にあろうかと思われるほど美しい交響的素描の絶対よ。
僕は、三好達治の「郷愁」と題する詩を思う。
蝶のやうな私の郷愁!・・・蝶はいくつか籬を越え、午後の街角に海を見る・・・。私は壁に海を聴く・・・。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。—海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして、母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に生みがある。」
~現代日本文學大系64「堀辰雄・三好達治集」(筑摩書房)P244
海こそが人間に与える安堵感は何ものにも代え難い。
とはいえ、このアルバムの白眉は「夜想曲」だろう。最美は、第3楽章「シレーヌ」。女声合唱のヴォカリーズが紡ぎ出す、いかにもドビュッシーらしい物憂げな表情は、まさに三好達治の「郷愁」に通ずる喜びだ。
ドビュッシーにおいては作曲の科学は、振動で広がった意識によって虹色に輝くように見えているが、この意識とは、音楽と光、感情が同じ1つのエネルギーによって振動するような底知れない秩序による、直観的な意識なのである。彼の全作品は、このような諸要素の共謀によって振動している。そして、耳を視覚に、視覚を理解力に対して目覚めさせる光を鳴り響かせるのだ。
~ヴェロニク・ピュシャラ著/神月朋子訳「ブーレーズ―ありのままの声で」(慶応義塾大学出版会)P50
理屈を超えた世界こそドビュッシーの本懐。
[…] ※過去記事(2020年8月12日) […]