蝶のやうな私の郷愁!・・・。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角に海を見る・・・。私は壁に海を聴く・・・。私は本を閉ぢる。私は壁に凭(もた)れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ!と私は紙にしたためる。—海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西(ふらんす)人の言葉では、あなたの中に海がある。」
※フランス語では、母をmere(mε:r)、海を mer (mε:r)と表記する
「郷愁」
~現代日本文學大系64「堀辰雄・三好達治集」(筑摩書房)P244
三好達治の詩集「測量船」に収録される「郷愁」を知ったのは35年前のことだった。
母なる海の謂れが、文字にも表明されていることに僕は痛く感動した。
《海》を交響的《素描(エスキス)》とよんだのは、一種の韜晦のようなものだったのだろうか。などと問うのは、《海》がけっして描写音楽ではないからである。ドビュッシーは、音という質量にかたち、時間と運動のかたち、それも職業的な修辞法から解き放たれている開かれたかたちを与えるために、海からその流動する形相をかりたのだった。
(平島正郎)
※韜晦=自分の才能、地位、形跡などをごまかしてわからないようにすること。他人の目をくらまし、隠すこと。
~「作曲家別名曲解説ライブラリー10 ドビュッシー」(音楽之友社)P40
僕は平島さんの解説に至極納得した。
「海」は単なる描写音楽ではなく、水というものの性質(老子第8章「上善は水の若し」参照)に根ざした、目に見えないものを見える化した音楽だったのだ。
上善若水。水善利万物、而不争。処衆人之所惡。故幾於道。
居善地、心善淵、与善仁、言善信、正善治、事善能、動善時。
夫唯不争、故無尤。
もう16年前になる。
友人の紹介で、とあるオーディオ・マニアのご自宅を訪問し、総額1,600万円をかけたという装置で音盤を聴かせていただいた中に、ドビュッシーの「海」があった。それは、クラウディオ・アバドがルツェルン祝祭管弦楽団を指揮してのライヴ音源だった。
あの日、彼の自宅地下のリスニングルームで聴いた「海」やマーラーの「復活」の音に僕は心底感動した。何より、「素描(エスキス)」が単なる自然描写でなく、音楽そのものの躍動と律動、そして決して人工的でない旋律が見事に「海」、否、「母」という文字と連動して1世紀前の「郷愁」を髣髴とさせることに確かに吃驚した。
たしかにショパンは神経質なので、ソナタを仕立てあげるのに必要な辛抱にたえることは、得意ではありませんでした。彼はむしろきわめて精緻な〈エスキス〉をつくったんです。しかもなお、この形式をあつかうひとつの個性的な流儀を彼がひらいたことは、認めてよろしい。その際発明したなんとも心地よい音楽性については、言うに及ばずです。彼は、物惜しみしない着想をいだくことができる男でした。その楽想に100パーセントの投資を無理強いせぬまま、それをしばしばとり喚えたものです。
(クロッシュ氏・アンティディレッタント)
~平島正郎訳「ドビュッシー音楽論集 反好事家八分音符氏」(岩波文庫)P16
ドビュッシーが規範としたのは間違いなくショパンだった。
永遠なる「海」の源泉には、おそらくショパンの「物惜しみしない着想」があったのだろうと想像する。「海」、何と美しくも逞しい音楽だろうか。ここには永遠の母がある。
※過去記事(2020年8月12日)
※過去記事(2008年3月26日)