心の能動性と受動性。つまり、創造する力と感知する力をいかにバランス良く持つか、それこそがよく生きる鍵だと僕は思う。
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、音楽の正しい聴き方について次のように言った。
音楽の正しい聴き方には二種のものが必要である。音楽性(素質)、そして偉大な作品から流れ出る情熱と生の温かみとをあますところなく感知し、受け入れるために充分な、有機的な生命力である。一方だけで他方が欠ければ物足りない。しかし両者を兼ねあわせることは稀である。
(1948年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P60
心の器を大きくすべく錬磨せよと彼は言うのだ。そして、それはおそらく一生仕事だと。
ユーディ・メニューインとのベートーヴェンを聴いて、内側から出る得も言われぬ温かさを感じ、僕はベートーヴェンの音楽の偉大さと共に、フルトヴェングラーとメニューインの、目には見えない、しかし、信頼に基づいた大いなるつながりを思った。
少々古びた造形というのか、録音の問題もあるが、メニューインとのヴァイオリン協奏曲は、残念ながら聴く者に感動を喚起するには弱い、ベートーヴェンの意志を表現するには何か大事な能動性が欠けているように僕には思われる。
一方の、2つのロマンスは、メニューインが主導権を握りつつ、それでいてフルトヴェングラーの造形感覚を重視し、ベートーヴェンの内なる調和を見事に表現した美しい演奏だ。少なくともこの6年近くの隔たりは、メニューインの心の器を大きくしたであろうし、またフルトヴェングラーとの関係も一層緊密になっただろうことが容易に想像される。
形象化された音楽、完璧に形象化された音楽が、はじめて混沌を自分の内に包容することができる。それ以外のあらゆる音楽は混沌を自己の外に有している。作品がよりよく、より古典的に演奏されるにつれて、混沌は、より明確に作品の内に姿を見せるはずである。
~同上書P57
陰陽相対の中にあって、混沌と調和、あるいは破壊と創造が一体であることをフルトヴェングラーは体感的に知っていたのだと思う。彼の生み出す音楽の中にあるデモーニッシュな側面が聴衆に異常な感動を与えるのはそのお陰だろう。
[…] アルフレッド・コルトーは、フルトヴェングラーは聴衆を意識していたのはなくあくまで音楽のことしか考えていなかったのだと言うのだが、フルトヴェングラーの真骨頂はライヴにあるのだとあらためて確認する。そこに聴衆がいて、相互のコミュニケーションが成されるがゆえの大いなる波動。何もあえて比較することもないのだが、先に紹介したメニューインを独奏に迎え、ルツェルン祝祭管弦楽団と録音した演奏が静とするなら、シュナイダーハンとの実況録音(カデンツァはヨーゼフ・ヨアヒム作のもの)は、いかにもフルトヴェングラーらしい動の、それでいて踏み外しのない晩年の安定した様式がミックスされた名演奏である。音楽は冒頭から朗々と奏される。静かに叩かれるティンパニの4つの音が、楽中幾度も有機的に繰り返される様に、あの(何でもない)4つの音にこそベートーヴェンの「運命」たる思念が刻印されているのだろうと思う。 […]
おじゃまします。フルトヴェングラーとメニューイン、この組み合わせの響きの素晴らしさに早速聴いてみました。が、よく見ると私の聴いたCDは1953年に録音されたものでした。このルツェルン音楽祭の6年後だからでしょうか、メニューインの演奏は、堂々と格調高い響き、高潔な造形・・・「完璧」という言葉が頭に浮かびました。メニューインは「ベートーヴェンを弾くのなら、フルトヴェングラー先生以外の誰とも弾きたくない。」と言っていたそうで、頂上は頂上を知る、というところでしょうか。30才違う二人が共演する機会が持てて本当によかったです。ありがとうございました。
>桜成 裕子 様
そうですね。53年録音のものはメニューインの生み出す音楽が一層充実していますよね。ただし、フルトヴェングラーが指揮したベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲は、(先日も記事を書きましたが)個人的にはシュナイダーハンとの53年のライヴ録音がより素晴らしいと思います。ご一聴ください。
https://classic.opus-3.net/blog/?p=30988