グールド カラヤン指揮ベルリン・フィル ベートーヴェン ピアノ協奏曲第3番ほか(1957.5.26Live)

もしグレン・グールドがコンサート活動を止めていなかったら、その後の彼の演奏家人生はどのように変わっていただろうか。

グールドは耳だけでなく、目も鋭かったと見える。そして、全身全霊で芸術を享受するアンテナの高さは人後に落ちなかった。1968年、彼はカラヤンについて次のように語った。

しかし彼はそうした能力を発揮するにとどまらず、ドイツのカペルマイスター的伝統からはずれた音楽をも取り上げるのです。彼のドビュッシーの《海》は、私の知る限り、最も説得力のある解釈ですし、彼はシベリウスの第5番という冗漫で不気味な曲をそう簡単には忘れられない北欧の叙事詩に変えられる能力の持ち主です。この種の曲は、カラヤンの最良の部分を引き出します。どちらも、シンメトリカルなバランスとオーケストラのニュアンスが課題となりますが、カラヤンはまさにこうした課題をその確かな劇場感覚を用いて解決する能力を独自に備えているのです。
グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P61

バランスとニュアンスを、「劇場感覚」でもって解決する能力とは言い得て妙なり。グールドの、カラヤンを讃美する言葉が的を射る。1957年、グールドが舞台裏から見たカラヤンの指揮はシベリウスの交響曲第5番だった。その時の様子を後のセルフ・インタビューで彼は次のように語っている。確かに、このときの演奏は、熱のこもった活気のあるもので、終楽章アレグロ・モルトに向かって仄暗い空気から解放される怒涛の音響に言葉をなくすほど。

僕はステージからガラス1枚で隔てられた録音ブースに引きこもっていたんです。そこからはカラヤンの顔を見ることができたので、彼の陶酔的な表情の変化と、その結果として出て来る音との関係を導き出すことができました。ご存知のようにカラヤンは、特に後期ロマン派の作品では目を閉じて指揮し、タクトの動きにきわめて説得力ある舞踊のような輪郭を与える傾向がありますよね。率直に言って、この効果こそが僕の生涯で本当に忘れられない音楽的かつ劇的体験のひとつになっているのです。
(「グレン・グールド、グレン・グールドについてグレン・グールドに聞く」1974年)
SICC 30349ライナーノーツ

実に興味深い、グールドの演奏にも共通するのが「説得力のある舞踊のような輪郭を与える」効果なのだと言えるのかもしれない。表現方法はまるで正反対の二人が共演したベートーヴェンを聴いて、不思議に統一性が感じられるのは、そういう外面を超えた内的な共感に発露されるものなのだろうと僕は思った。

コンサート・イン・ベルリン1957
・ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第3番ハ短調作品37
・シベリウス:交響曲第5番変ホ長調作品82
グレン・グールド(ピアノ)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1957.5.26Live)

ベルリン音楽大学コンサートホールでの実況録音。
速めのテンポで始まるベートーヴェンの第1楽章アレグロ・コン・ブリオでのオーケストラの力強さにまずは感嘆する。おそらくこの日は指揮者だけでなく、オーケストラも十分気合いが入っていたように思われる。グールドの独奏も完璧なテクニックで流麗、音楽が今も目の前で生きているかのように奏される。そして、沈思黙考たる第2楽章ラルゴの静寂美。大自然を愛するベートーヴェンの慈しみの想いを音化する如くの(グールドの)思念が伝わってくるようだ。楽章を追うごとに勢い増すカラヤンとグールドの丁々発止は、終楽章ロンドで頂点を迎える。

ところで、グールドが激賞するカラヤンのシベリウスは、ごつごつとした生き物のような響きで、その生命力たるや終始並みでない(終楽章アレグロ・モルトのコーダにおける途轍もないうねり!!)。私見だが、これは後のスタジオ録音を凌駕するエネルギーに満ちるものだ(ライヴのカラヤンの凄まじさ)。

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2 COMMENTS

桜成 裕子

おじゃまします。このCDを聴いてみました。ベートーヴェン3番は本当に素晴らしいと思いました。試しに3年後に録音されたバーンスタインとの演奏も聴いてみました。1・2楽章が1分前後遅くなり、ピアノが雄弁に前に出ているような印象を持ちました。その分カラヤンとのライブは軽快でオーケストラとの一体感があり、初々しさを感じました。
 シベリウスの交響曲は初めてですが、北欧の凍てついた森、北極海の氷等、厳しく美しい自然の迫力をかんじました。
 ここに書かれているグールドのカラヤン評は、残念ながら私には理解が難しいのですが、以前、カラヤンとワイセンベルクの共演を評して、「二人は合っていない。」とグールドが言った、と読んだことがあるので、グールドはワイセンベルクの演奏に好意を持っていたので、カラヤンには批判的なのだと思い込んでいました。カラヤンの「劇場感覚」とは、カラヤンが若い時オペラの劇場で修業をしていた、というようなことと関係あるのでしょうか。 いつもながら鈍感なことで恐縮です。

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岡本 浩和

>桜成 裕子 様

ワイセンベルクとカラヤンのことについては、彼らの共演したラフマニノフの協奏曲第2番を採り上げて、合っていないという評をグールドは確かに出していますね。しかし、それは決して批判的なものではなく、ただグールドの感じる事実を述べるに止めているように思われます。その意味では、グールドはカラヤンをやはり評価していたように思います。この後の共演の機会は幾度も模索されたようですが、結果的に叶わなかったことが残念です。

「劇場感覚」というのは、もっと広い意味でカラヤンの持つセンスの音を言っているのではないでしょうか。グールドの以下の言葉が参考になります。

何しろフォン・カラヤンの自我は—実力派の音楽家はみなそうですが—無視できない力であり、それは特定の作品に関わる演奏法の伝統を葬り去るのに十分なもので、カラヤンの実に並みならぬ個性を刻印し、さらには、かの伝統主義者の怒りを買いましたし、ストラヴィンスキーのように、作曲家が実際に居合わせてその演奏を聴いた場合は、その作曲家の怒りを買い、それについて書かれもしたのです(ストラヴィンスキーが反発したのは《春の祭典》においてカラヤンが不敵にも行使した黙考的で反打楽器的な処理でした)。
P60

グールドは、カラヤンの《春の祭典》を評価し、その演奏は楽譜の驚異的な演出(コレオグラフィー)だと語っています。そういう個性的な能力を「劇場感覚」と言い表したのだろうと想像するのです。

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