リパッティ カラヤン指揮フィルハーモニア管 シューマン ピアノ協奏曲(1948.4録音)ほか

いかなる芸術でも、その最後の値打を決定するためには、創作者、演奏者の人格にまで戻らなければならない、不良少年型のいわゆる天才は、一時ジャーナリズムの波に乗って、天下の人気を背負って立つことがあろうとも、それは全く稲妻のようにはかない一閃光で、永遠に人の心を高め得るものではない。
(あらえびす)
~野村胡堂(あらえびす)「かたくりの群れ咲く頃の」P52

野村胡堂、すなわちあらえびすの芸術に対する鑑識眼は実に真っ当だと思う。彼の残したレコード評論の多くは、100年近くを経た現代でも通用する、永遠の、普遍的なものだ。

あらえびすとは聞き慣れない語だが、遠い昔、関東人をにぎえびす、東北人をあらえびすといった。
吉田兼好が徒然草(142段)の中で、あらえびすを讃えている。
心なしと見ゆる者もよき一言は言ふものなり。あるあらえびすの恐ろしげなるが、かたへにあひて「御子はおはすや」と問ひしに、「一人も持ち侍らず」と答へしかば、「さては物のあはれを知り給はじ。情けなき御心にぞものし給ふらむと、いと恐ろし。子ゆえにこそ、よろずのあはれは、思い知るられ」と言ひたりし、さもありぬべき事なり。

~同上書P52

ペンネームあらえびすの由来を知り、僕は膝を打った。
人は外見で判断してはならない、心だと。同じく芸術についてもだ。

・グリーグ:ピアノ協奏曲イ短調作品16
アルチェオ・ガリエラ指揮フィルハーモニア管弦楽団(1947.9.18-19録音)
・シューマン:ピアノ協奏曲イ短調作品54
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮フィルハーモニア管弦楽団(1948.4.9-10録音)
・リパッティ:古典様式によるコンチェルティーノ作品3
ハンス・フォン・ベンダ指揮ベルリン室内管弦楽団(1943録音)
ディヌ・リパッティ(ピアノ)

執筆当時、リリースされたばかりのこれらの録音についてあらえびすは絶賛する。
僕は、オーパス蔵の復刻したリアルで生々しく重厚な音に感激した。

「ピアノ協奏曲=イ短調(作品16)」は物優しい良い曲だ。ビクターにバックハウスのピアノとバルビロリがニュー・シンフォニー管絃楽団を指揮したのが入っている。新しいのではリパッティのが名演だ(コロムビア)。外にルービンシュタイン(ビクター)、ギーゼキング(コロムビア)がある。
あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P291

古い録音であるが、音そのものは不思議に明瞭で、また明るい。北欧の暗い詩情に、リパッティの果敢なピアノが重なり玲瓏なる音楽と化すのである。時間の経過とともに勢い増す第1楽章アレグロ・モルト・モデラートが美しい。

「ピアノ協奏曲=イ短調(作品54)」は極めて有名な曲であり、シューマンにとっては傑作の一つである。この曲を良人シューマンの為に精一杯弾いて、その頃の無理解な―或いは無理解を装わんとする聴衆を説得せんとした、名媛クララ夫人の努力が今に偲ばれて床しい。レコードではビクターにコルトーの名演がある。管絃楽はロンドン・フィルハーモニックで指揮はロナルド卿、壮麗極まる演奏で、この豊かな美しさに帽子を脱ぐ。コロムビアのナットは気の清んだフランス風のリアリズムが特色である。最近はルービンシュタインのがビクターから出たが、これは賛成しかねる演奏である。コロムビアの長時間で出たディヌ・リパッティのは、詩情に溢れた非常な名演である。指揮はカラヤン。
~同上書P178-179

あらえびすの手放しの賞讃は、70余年を経た今も的を射た永遠のものだ。リパッティのピアノは瑞々しい(また低音の充実感!)。しかし、何よりここはカラヤンの伴奏が生きる。第1楽章アレグロ・アフェットゥオーソ冒頭のピアノの一撃から音のニュアンスが何と豊かなことか。あるいは、第2楽章アンダンティーノ・グラツィオーソの、ピアノに呼応するふくよかな管弦楽の響きが堪らない。

そして、バッハやハイドンに倣った(引用を含む)リパッティ自作自演のコンチェルティーノが何とも可憐で美しい。

芸術の鑑賞はすべて安価な官能的な快さをもって満足すべきものではない。真の芸術、高く尊い芸術であるためには、甘さと同時に辛さも必要であり、光と同時に影が必要であり、暖かさと同時に冷たさが必要である。この辛さ暗さ冷たさを噛みしめる努力がなければ、真の芸術はわかるものではない。文学も美術も、音楽も同じことだ。甘美な通俗ばかり求める心は、真の芸術から次第に遠ざかっていく。
(あらえびす)
~野村胡堂(あらえびす)「かたくりの群れ咲く頃の」P54

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