モーツァルトの刃で斬りつけられて、なおかつ傷つかないような音楽はほとんど考えられないし、モーツァルトほど、ひとつの堅牢なものになっている音楽も少ない。そういうモーツァルトを聴いて私が思い浮かべるのは、たとえば、あれこれの詩のなかで時折り出会う、閃光のようなイメージの一瞬の輝きであったり、同じ空気現象である蜃気楼の姿ということになろうか。いずれにしても純粋なフォルムにまで精錬され、うわ澄みだけになって無に帰する寸前の状態にある、あるものの形ということになる。モーツァルトほど音というものの音楽的な意味に敏感だった作曲家はほかに考えにくいのではないだろうか。
中河原理「人間の自由の声を聴く」
~「私のモーツァルト」(共同通信社)P255-256
中河さんの言葉に膝を打った。
高校生の僕にとってモーツァルトは天恵だった。
神童の音楽にどれほど魅せられたか。
必携はFMラジオだった。
来る日も来る日もエアチェックをした。
すべての音楽が新鮮に聴こえ、同時に新しい音楽を追いかけていたあの頃が懐かしい。
僕の耳は肥えたと言えるのか?
ある意味進化したが、別の意味では退化したと言える。
その昔、FM放送で流れていたモーツァルトの音楽に釘付けになった。「ジュノーム」という名のピアノ協奏曲だった。オーケストラはNHK交響楽団、ピアノは野島稔。残念ながら指揮者は思い出せない。ライヴゆえの乱れは随分あったけれど、若きモーツァルトの可憐な音楽に第1楽章アレグロ冒頭から僕は歓喜した。今、同じ音楽を耳にしても、あのときと同じ喜びを体験することができない。やっぱり耳は、感性は知らず知らずのうちに退化しているのだ。
四半世紀前、エリック・ハイドシェックが立て続けにモーツァルトの協奏曲を録音し、コアなフリークが喜んだ。独特の、天衣無縫の演奏を、当時僕は正直全面的に受け入れることができなかった。決して崩し過ぎたわけではないのだけれど、それでも多少の逸脱が気になった。しかし、今になって思う。まさに、自由奔放なモーツァルトの体現こそがハイドシェックの信条であり、まるでモーツァルト自身がそれを奏しているような、即興的な演奏だったのだ。
いずれも通称(?)となる名の女性に献呈された美しい曲。
56歳にしてようやくハイドシェックのモーツァルトの真の意味が理解できたのかもしれない。いずれの協奏曲も緩徐楽章が肝。それはまさに「閃光のようなイメージの一瞬の輝き」といえよう。