クレンペラー&ウィーン・フィルの「ジュピター」交響曲(1968.5.19Live)を聴いて思ふ

mozart_jupiter_klemperer_vpo人間は無一文では何もできません。
1788年6月17日付、プフベルクに宛てたモーツァルトの金の無心の手紙の一節である。たったこれだけでこの時期彼がいかに切羽詰っていたかがわかる。そして、この手紙の直後に例の三大交響曲が順次生み出されたということになる。いや、おそらくK.543に関してはこの手紙と並行して楽譜に認められていただろうことは間違いない。
3つの交響曲のいずれにも、生活に困窮している素振り、雰囲気は一切感じられない。もはや現実を超越し、魂だけがうねりをあげる純粋無垢の、奇蹟の音楽たち。

誰しも明日があることを信じているけれど、それは誰にもわからない。
ならば、常に一期一会の邂逅だ。父の死を目前にし、モーツァルトは悟る。

そしてぼくは、死こそぼくらの真の至福への鍵であることを知る機会(ぼくの言う意味がおわかりですね)を与えてくれたのを神に感謝しています。―ぼくはいつも床につくとき、ことによると明日は(まだこんなにも若いのに)もう生きていないかもしれないと思わないことはありません。けれども、ぼくを知っている人で、ぼくが人とのつき合いで不機嫌だとか悲しげだとか言える者はいないでしょう。そして、この幸福をぼくは毎日、創造主に感謝しています。
1787年4月4日付父レオポルト宛
「モーツァルト事典」(冬樹社)P119

ここにあるのは厭世観ではない。むしろ生と死が一体であることの喜びすら感じさせるもので、最晩年の彼の作品を理解する上で真に貴重な手紙なのである。

巨匠のモーツァルトにはそれぞれ個性がある。オットー・クレンペラーの晩年のウィーン芸術週間における「ジュピター」交響曲の、重い足取りで始まるある種異形の演奏に「永遠」を見た。

モーツァルト:
・管楽のためのセレナーデ第12番ハ短調K.388 (384a)「ナハトムジーク」
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」
オットー・クレンペラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1968.5.19Live)

果たしてクレンペラーのこの解釈が一般的に受け容れられるのかどうなのかそれは正直わからない。しかし、第2楽章アンダンテ・カンタービレのそこはかとない哀しみの表情はついぞここ以外で耳にしたことのないものだ。あるいはこれは、非情な現実に対してのモーツァルトの怒りを表すのか・・・。第3楽章メヌエットはすべてをオーケストラに委ねるかのような余裕の感じられる舞曲。そしていよいよフィナーレ、モルト・アレグロの「宇宙の鳴動」!!
モーツァルトの生涯の、予約演奏会盛況の歓喜も金の無心での苦悩も・・・、あらゆる感情と思いが錯綜する屈指の楽章が巨匠の堂々たる演奏で「飛翔」する。
特に、コーダにおける二重フーガの壮大な展開と、終結に向けて歩みがゆるやかに減速される表現はクレンペラーならではで、この最後を聴くためだけにこの演奏に太鼓判を押す。

そういえば、吉田秀和さんがかつて大岡昇平さんとの対談で語っていた。

例えば、あの人はハ長調ってのはたくさん書きました。ミサはほとんど、そうでないのもあるけど、大部分はハ長調ですよね。やっぱり明るいもの、それから非常に勇気づけられるようなものというのを、ハ長調で書くという傾向はありますね。
それはひとつこういうこともあると思います。たとえば、あの人はとてもトランペットが好きだった。トランペットのいちばん輝かしい音ってのは、それはやっぱりハ長調ですよ。トランペットが高らかに鳴るように、あの人はなにしろ音楽というのを、ただ音というふうに考えないで、ある楽器の音とか、ある歌手の声とかって、具体的な音でつかまえるでしょ。だからどんな音楽を書くんでも、これはなんの楽器に当てようってことを考える。考えるっていうか、そういうふうにして出てくるわけでしょう。そうすると、その輝かしい音色の楽器を活躍させるようなものとして曲を書くときにハ長調のものを書くことが多い。そういう傾向はやっぱりあるでしょうね。

モーツァルトが必然で書いた音楽。そして、ある意味人生の最終解答のひとつとも言うべき「ジュピター」交響曲・・・。

 

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