大宇宙はこの身の小宇宙と一つであることは間違いない。世界の真象は実際フラクタルなのだ。
アンモナイトが歴史的進化発展の結果として肥大化し、消滅したように(肥大化は衰退の典型的特徴のひとつである、例えばヴァーグナーの楽劇を見よ)、交響曲はマーラーにおいて極限まで肥大化し消滅した。すなわち、マーラーは伝統的形式に何かが付加している、あるいは崩れているという方法を自身の基本原理にすえたわけであり、良い意味で「無駄の多い芸術」なのである。
(米田栄)
~キーワード事典編集部編 作曲家再発見シリーズ「マーラー」(洋泉社)P138-139
何とわかりやすい論であることか。この「無駄の多さ」を受容できるようになったら世界は変わる。長尺のマーラーの音楽に支離滅裂さを思い、辟易しているのならまだまだだろう。
ある大公が遅れて入ろうとしたとき、マーラーは許さなかった。このことを聞いたフランツ・ヨーゼフ皇帝は言った。
「しかし、マーラー君、オペラは単なる娯楽ではありませんかね。」
マーラーにとってはオペラは単なる娯楽ではない。芸術なのである。この違いが宮廷歌劇場総監督であるマーラーの悲劇のもとであった。例えばマーラーはあるソプラノ歌手の歌唱が気に入らず、解雇しようとした。劇場関係の人たちはマーラーに思いとどまるよういさめた。なぜならこのソプラノ歌手は皇帝と特別な関係にあり、そのため高給をはんでいるのだというのである。マーラーはこの忠告をきかず、その歌手を追放したので、皇帝は憤激した。皇帝はまさにオペラを「娯楽」と考えていたからである。
~渡辺護「ハプスブルク家と音楽—王宮に響く楽の音」(音楽之友社)P166
マーラーのこの頑なさ(真面目さ)こそが、彼の芸術の基本を支配しているのだと思う。楽譜における細かい指示、徹底的に作品を推敲する姿勢など、100年を経て彼の芸術が一世を風靡するのは、悪く言えば融通の利かないエゴイスティックな、しかし、創造的な能力の成せる業ゆえだろう。
ジョナサン・ノットのマーラーは、これまで幾度か実演を聴いた。
いずれの演奏も、マーラーの意図に忠実な、同時に常に革新を追求しようとする姿勢に貫かれた素晴らしいものだった。
・ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」第1幕前奏曲(2012.9.8Live)
・マーラー:交響曲第1番ニ長調「巨人」(2005.12&2006.2録音)
ジョナサン・ノット指揮バンベルク交響楽団
ノットの本懐。どの瞬間からも青春のマーラーの色香薫る素敵な音(何より明晰な音!)。バンベルク響のいぶし銀の演奏が、輪をかけるように19世紀末の官能と退廃を讃えるよう。ただし、一層素晴らしいのはワーグナー。「トリスタン」の内燃する官能を、これほど直截的に短い前奏曲の中で表出させる技量に舌を巻く(願わくば楽劇そのものを聴いてみたい)。