クーベリック指揮バイエルン放送響 マーラー 交響曲第4番(1968.4録音)

終楽章の「喜びへの讃歌」に向けて、音楽が拡大発散し、あるいは諧謔を帯び、世界が回る。ときに、後の交響曲への布石まで飛び出し、彼の生涯を表わすかのように、音楽は轟き、また囁く。何という調和だろう。

しかし、妙なことだが、僕がまたふたたび自然の中に赴いて、自分自身を取り戻すと、あらゆる下らないこと卑しいことはまるでうそのように消えうせて跡形もなくなってしまったのだ。そのような日々には僕を煩わせるものは何一つ無く、それがいつでも僕の救いとなるのだ。—
もちろん今これからは何かきついことが僕の許に訪れて、ふたたびここを占拠する。という次第で、依然として僕は半々、第4の世界に生きているのだ。—これは僕のその他の交響曲とまったく違ったものだ。だが、そうでなくてはならないのだ。僕には同じ状態を繰り返すのはできない相談だ—そして人生が先へ進むにつれて、新しい作品ごとに新たな軌道を測量して踏破するのだ。

(1900年8月18日付、ニーナ・シュピーグラー宛)
ヘルタ・ブラウコップフ編/須永恒雄訳「マーラー書簡集」(法政大学出版局)P260-261

マーラーは「永遠の駆け出し」だと自身を揶揄するが、だからこそ常に新たな方法で、真っ新な交響曲が仕上がったのである。しかも、清濁、聖俗入り乱れる中での作曲行為の難しさと尊さをわかって彼は日々ペンを執った。

・マーラー:交響曲第4番ト長調
エルジー・モリソン(ソプラノ)
ルドルフ・ケッケルト(ヴァイオリン独奏)
ラファエル・クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団(1968.4録音)

大河のように流れる音楽の懐の大きさと引いては寄せ、寄せては引く甘美な旋律の宝庫の第3楽章が素晴らしい。さらには、エルジー・モリソンの歌う終楽章の冒瀆的、アイロニカルな天国の歌の清澄さ(否、人の業を暴く残酷さか?)。

ヨハネは仔羊を小屋から放して、
屠殺者ヘロデスはそれを待ち受ける。
我らは寛容で純潔な
一匹のかわいらしい仔羊を
死へと愛らしいその身を捧げ、犠牲にする。
聖ルカは牛を
ためらいもなく、犠牲にさせなさる。
天上の酒蔵には、
ワインは1ヘラーもかからない。
ここでは天使たちがパンを焼くのだ。

Wikipedia

クーベリックのマーラーは、巷間語られる通り、一切の恣意なく楽譜の基本に忠実なものだが、実に好感度が高い。というより、安心してマーラーの世界に身を任せられるのである。

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