ミルシテイン J.S.バッハ 無伴奏ヴァイオリン・ソナタ&パルティータ全曲(1973録音)

バッハは最もよき慰藉であり、最もよき師父である。悲しみにも、歓びにも、私は自分の心の反映をバッハの音楽に求める。200年を距てて、バッハの音楽は、我等の心に不断の光と歓びとそして慎みとを与えずにはおかない。
あらえびす「クラシック名盤楽聖物語」(河出書房新社)P46

無心に、ひたすらバッハを聴く。
無我に至らざれば、この音楽の真髄は掴めぬのか。
無為、すなわちあるがままに、音楽に対峙できれば、音楽は時間と空間を超え、我が物に同期する。

一切のぶれなく、バッハの心境、信仰心を音化した演奏とでも表現しようか。たった一挺のヴァイオリンで奏される奇蹟の6曲は、人間の思考や感情を超える。そこにあるのは陰陽二気の純粋なエネルギーとでも言おうか。光と翳が交互に立ち現われ、僕たちに智慧を与えてくれる。
ただ慈しみの心に溢れよと、余分な求める心を格せよと。

ナタン・ミルシテインの弾くバッハの神々しさ。

さて、十字架上の贖罪死が神の計画であったとすれば、それが紀元一世紀に起こった以上、人間の罪の許しは、すでに与えられたということになる。したがって問題は、人間がそのことをいかに認識し、今後に役立てて生きるか、ということである。その意義に目をふさぎ、無視して省みないことは、人間がいっそうの罪を歴史に積み重ねることにほかならない。そこで教会は、2000年近くもの間、「信じる者は救われる」というテーゼを説き続けてきた。
礒山雅著「マタイ受難曲」(東京書籍)P26

教えの問題は、教えに終始するから問題なのであり、人間の積み重ねてきた業の解決策は、そもそも実践しかないのだということを僕たちは知らねばならない。あくまで各々が自らを明らかにすることを実践するしかないのである(信じるだけではだめだということ)。

ミルシテインのバッハが美しく、心を打つのは実践的だからだろう。

ヨハン・セバスティアン・バッハ:
・無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番ト短調BWV1001
・無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第1番ロ短調BWV1002
・無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第2番イ短調BWV1003
・無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第2番ニ短調BWV1004
・無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第3番ハ長調BWV1005
・無伴奏ヴァイオリン・パルティータ第3番ホ長調BWV1006
ナタン・ミルシテイン(ヴァイオリン)(1973.2, 4 &9録音)

6曲のどの瞬間を聴いても、ミルシテインはバッハの真髄をとらえていると思うが、最美はやはりパルティータ第2番ニ短調BWV1004終曲のシャコンヌだろう。古くはSP録音時代のものからこの人のシャコンヌは別格扱いされてきた。静謐で厳粛な中にわずかな官能、すなわち人間的な感情が垣間見え、聖俗のバランスに長けているのである。それに、何と素晴らしい高揚感。実にミルシテインのシャコンヌは特別だ。

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