一つの理想—〈聖なる神〉という理想—をたてて、これと対面することで自己の絶対的無価値をはっきりと確認しようとする人間の意志である。おお、この錯乱した哀れむべき人間獣に心せられよ! 彼らは、行為の野獣たることを、ほんのちょっとでも妨げられるとなると、何たる思いつきをやらかすことか! 何という反自然の奇怪事が、何という乱心の発作が、何という観念の野獣性が、すぐさま爆発することか! ・・・これらすべてのことは極度に興味深いものではあるが、しかしまた暗澹たる陰鬱な滅入るような悲愁に覆われたものであるから、この深淵をあまりに久しく覗きこむことは是非とも止めるようにせねばならぬ。疑いの余地もなく、ここには病気がある。今日まで人間の内に猖獗をきわめてきたもっとも怖るべき病気があるのだ。—が、この拷問と背理の暗闇のうちに、いかに愛の叫びが、憧れに痴れた歓喜の叫びが、愛における救済の叫びが鳴り響いていたかを、なお聞きとることができる者は(だが、今日ではもはや、それを聞きとれる耳をもつ者はいないのだ! —)、抑えがたい戦慄に襲われて顔をそむける・・・。人間のうちには、かくも多くの怖るべきものが存在するのだ! ・・・この大地はすでにあまりにも久しく癲狂院であった! ・・・
(「道徳の系譜」第二論文 〈負い目〉、〈良心の疚しさ〉、およびその類いのことども)
~信太正三訳「ニーチェ全集11 善悪の彼岸・道徳の系譜」(ちくま学芸文庫)P476
世界を狂ったものにしたのは人間の果てしない「欲」であった。それは、慈しみを欠いた我欲であったし、もちろん今も変わらない。最大の難問は有史以来繰り返される戦争だ。だからこそ、ニーチェが指摘するように、僕たちが悟り、本来有する愛の叫びを聞き取れる耳を復活せねばならない。
ドミトリー・ショスタコーヴィチが戦時中、文字通り「戦争」をテーマに創造した交響曲にはいずれも「癲狂院」たる抑えがたい戦慄がある。そして、そこには同時に愛の叫びが、憧れに痴れた歓喜の叫びがある。あの苦悩の、悶絶の、暗澹たる交響曲群を救い上げたのはベルナルト・ハイティンクその人ではなかったか。40余年前、例の「証言」の直後、満を持して録音を始めたハイティンクの勇気ある(?)新たな解釈は賛否両論だったと記憶するが、今やそれは屈指の名盤と呼んでも良いのではないか、ニーチェを片手に僕はそんなことを考えた。明朗な、屈託のない、素直で正直な、それでいて絶対音楽として真に迫る交響曲にあらためて感動する。
美しい交響曲第8番ハ短調。この作品の暗鬱さを受け入れ難いという人は、一度ハイティンクのこの録音を真摯に聴いてみて欲しい。第1楽章序奏アダージョにみる清廉な歌、魑魅魍魎たる全篇が何と手に取るように明るく表出することか。26分近くを要する長い楽章において一切の弛緩なく、むしろ聴き手を没入させる淡い遊びが全編に亘って横溢する。第2楽章アレグレットも決して厳しくなく、それでいて実に刺激的に歌われ(途中の木管独奏の可憐さよ)、ダイナミックで刺激的な行進曲たる第3楽章アレグロ・ノン・トロッポの安息(?!)に癒されるのだ。
白眉は第4楽章ラルゴからアタッカで続く終楽章アレグレット—アダージョ—アレグレットの静かな歓喜!
ちなみに、僕はベルナルト・ハイティンクの実演を幾度か聴いている。長い間ほとんど注視していなかった指揮者だったが、記憶の片隅に彼の音楽は今も残っている。
以前も書いたが、想い出の一つは、1997年8月のザルツブルク音楽祭でのマーラーの交響曲第9番ニ長調。ウィーン・フィルとの厳粛な儀式のような(?)その演奏は、僕にこの曲の素晴らしさを再認識させてくれた。生の苦悩をついに脱却せんと悶絶する終楽章のいよいよ最後、長いコーダの、土に還る瞬間を描くようなあまりに静謐な、神々しい時間を共有できたことは僕の宝物だ。そして、もう一つはチョン・キョンファを独奏に据えた、オール・ブラームス・プログラムによるスーパー・ワールド・オーケストラとの一夜(2003年7月、サントリーホール)。期待した協奏曲は今一つだったが、交響曲第1番ハ短調は、冒頭から実に堂々たる造形で、すこぶる鳴りの良い、刺激的な演奏だったことを憶えている。