Acqua Alta avec Jorge Donn (1975)

何て自由で開放的なダンスなのだろう。
ジョルジュ・ドンの踊る「恋する兵士」を初めて観たとき、僕は喜びに溢れる肉体美にとても惹かれた。それは、モーリス・ベジャールの傑作「エロス・タナトス」から「アクア・アルタ」のパートだろうか。歌はマッシモ・ラニエリ。「恋する兵士」はジャンルを超えたくさんの歌手によってとり上げられているが、ラニエリのバージョンが随一だと僕は思う。

・Acqua Alta avec Jorge Donn (1975)

かつてベジャールは、東京の印象を次のように書いた。

大いに憧れ、夢にみた都市に着いた時、写真や物語などで私が勝手に作り上げた観念が、突然の矛盾で面くらう、それが私は好きである。
東京は汚れた都市であり、西欧のどの都市よりも西欧的都市であるが、「現実の」日本そのものを私にゆだねていた。風景の悪さのため観光客を失望させたものが、実は最も夢中にさせるものでもあった。

前田允訳「モーリス・ベジャール自伝 他者の人生の中での一瞬・・・」(劇書房)P385

ベジャールとは、二元世界の矛盾を楽しむ男だ。初めての来日を終え、彼は禅に影響を受け、座禅を始めたが、ベジャールですら真の悟りを得ることはできなかった。当然なのだが。

私は弟子丸師と一緒に瞑想を行った。座蒲団の上に座り、あぐらをかき、背骨、両手、口、舌、視線などについてきわめて正確な位置を保ちながら、壁に向かわなければならない。とりわけ、何かを目差してはならない、たとえ、霊感の類のものでも—。呼吸の仕方が大切なのである。
それをして何に役に立つのか? 正確には、役立つものではない。くたびれるだけなのだ!
大事なことは激しさである。

~同上書P387

この時点でのベジャールの理解はこの程度だった。しかし、彼はとても大事なことを書いている。

禅について幾ら話しても、何にもならない。われわれの生活は苦痛に満ちている。何故なのか? 幻想のためだ。そのとおり。知ることはたったそれだけでも、それほど悪いとは言えない。
永遠は「一日」の継続なのだ。

~同上書P388

禅とは、悟りとは実践にほかならない。真実に、真理に辿り着けなければ結局は苦しいのである。しかし、仮にそのことがわかっても、得ることができなければ壁は越えられない。

すべては茶番であり、幻想であると知るとき、楽観の視点が発動する。
「恋する兵士」の、群衆の中でたった一人剽軽な素振りで愉悦を表現するジョルジュ・ドンの破顔の微笑よ。

無口な男だった。ダンスそのもの、愛そのもの、そしてダンスの愛そのもの、それが彼の全存在であった。20年以上にわたり、バレエの世界に新しい光をそそぎ続け、流星の如き奇跡の功績を世界中に残した彼の人となりを詳細に語るには、私の魂も心も今もって、あまりに生きた彼の存在に満ち溢れすぎている。
(モーリス・ベジャール)
「ジョルジュ・ドン—若きダンサーへの手紙—」(PARCO出版)P61

ドンは、普段は本当に無口だったらしい。
しかし、ひとたびダンスが始まれば彼の表情は、違った。
ベジャールのいう「ダンスそのもの」という表現が実に相応しい。

・Massimo Ranieri:’O surdato ‘nnammurato

最高だ。

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