
たった今モーツァルトの手紙を読み終りました。これはなんびとの蔵書にも欠かすことのできないものです。じっさいこれは芸術家にとって興味あるだけではなく、すべての人間にとって有益なものです。あなたが一度この手紙をお読みになったら、モーツァルトはあなたの生涯渝らぬ伴侶になり、困窮の時にはいつも、あのやさしい姿が、あなたの目の前に現われます。あなたには、あの善良な、無邪気な、雄々しい笑いが聞こえるでしょう。そして、どんな悲しい時でも、あんなに朗らかに堪え抜かれた不幸を思えば、恥ずかしくなって、顔が赤くなるでしょう。
(ロマン・ロラン、1891年)
~柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」(岩波文庫)P231
ロランがモーツァルト没後100年の記念の際に出した言葉は、今ほどまだモーツァルトが世間に認められなかったであろうとき(?)のものだ。ロランの手放しのモーツァルトへの讃美が素晴らしい。
手紙の時代であったがゆえに残された数多の言葉は、人類の至宝である。しかし、残された文章では彼の本意までは正直掴めない。本心は見えないのである。
その意味で、モーツァルトの人生と、彼の創造した作品とは一切関係のないものだと言ってしまっても言い過ぎではなかろう。死後ようやく認められ、それから数百年を経たモーツァルトの作品はもはや一人歩きを始めており、同時に数多の名演奏が歴史に刻印されている。たとえそれがどんな状況の時に書かれようと、今となっては探りようがなく、真実はすべて闇の中にすっぽり収まっているのである。だからこそ逆に面白く、また素晴らしく、すごいのである。
オイゲン・ヨッフム晩年のモーツァルト。2曲とも前年9月のウィーン・フィル定期におけるカール・ベーム追悼ライヴが壮絶で素晴らしく、おそらくそれを受けての再録は、老巨匠ならでは堂々たる外装で極めて美しく、オーケストラのいぶし銀の響きも手伝って、孤高の境地を獲得している。特に、「ジュピター」交響曲は十八番であり、最高の名演奏の一つだと断言する。第1楽章アレグロ・ヴィヴァーチェからヨッフムの独壇場。悠久の第2楽章アンダンテ・カンタービレ。意味深い第3楽章メヌエットを経て森羅万象の顕現たる終楽章モルト・アレグロの奇蹟(見事なフーガよ)。
一方、最晩年に録音したリヒャルト・シュトラウスがまた素晴らしい。何より脱力かつ有機的な「ドン・ファン」に僕は痺れる。