グールド J.S.バッハ ゴルトベルク変奏曲BWV988(1981.4-5収録)

衝撃のゴルトベルク変奏曲。
名解釈、名演奏が群雄割拠する作品において、この映像をはじめて目にときの感動がいまだに忘れられない。今となっては映像の粗さが気になるが、グレン・グールドの奇蹟ともいえるテクニックと独自の解釈は普遍的であり、また永遠不滅。43年前とは思えぬ斬新さに再び膝を打つ。

私の最初の《ゴルトベルク》の録音と今回の録音との違いは、第15変奏のような、長い、ゆっくりとした変奏でよくわかります。5度の反行カノンによる変奏です。26年前、私はあれをショパンの夜想曲のように弾いてしまいました。あの演奏をした人物をもはや認識できないのです。今の私にはわかるのですが、あの変奏にはある種の強度があって、虚飾を施す必要がまったくない。ピアにスティックな、器楽的な強度ではなく、精神的な強度です。26年前にああいう弾き方をしたことは、当時、演奏会を開いていたことと無関係ではありません。録音当時、《ゴルトベルク》を演奏会場で弾いたことは二度ほどしかなかったにもかかわらず、です。
ある夜、友人がスタジオに訪ねて来たとき、私は、長い、注釈が際限なく入るような逸話を披露しましたが、途中で彼女がこう言いました。「そのたぐいの話をするとき、あなたはいつも相手の目を見ないことに気づいているかしら? いつも壁か天井を見つめて話しているわ」と。あとでわかりましたが、指摘のとおりでした。私が人と面と向かって話をするよりも、今やっているように、電話の会話の方を断然好むのも、おそらくこのために違いないでしょう。私の場合、人が目の前にいると気が散るのです。映画を作るとき、カメラやマイク・ブームを持っていない人がひとりもいないことを確かめるようにしています。

グレン・グールド、ジョン・P.L.ロバーツ/宮澤淳一訳「グレン・グールド発言集」(みすず書房)P362

早々とコンサートをドロップアウトした事実こそがグールド独自のスタイルだった。
続けてグールドは真意を語る。

しかし私にしてみれば、聴衆は迷惑な存在です。気が散ってしまいます。必ずしも敵対するわけではないのですが、聴衆の貢献によって塩素が極上のものにならないのは確かです。こちらが耐え忍ぶべき存在以外の何物でもない。聴衆が演奏家の内面に呼び起こすと言われる高揚感や盛り上がりの感覚を味わった経験は一度もないのです。そういうことが私の身に起きたことはまったくありません。どう考えても、私には情緒的に合わないのです。
~同上書P362

ここまで自分の内面を断定できることが素晴らしい。
実際、スタジオで演奏するグレン・グールドの姿は崇高だ。

・ヨハン・セバスティアン・バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
グレン・グールド(ピアノ)(1981.4-5収録)

完全無欠の「ゴルトベルク変奏曲」。

過去記事(2015年8月30日)
過去記事(2007年10月21日)


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