
このたび完全セットとなったフルトヴェングラーの商業録音集から最初の1枚を聴いて、想像以上に音は悪くないと思った。それと、日進月歩のテクノロジーにあって、1920年代後半数年のレコード録音の世界の飛躍的進歩に瞠目した。
振り返れば僕の趣味の始まりは40余年前のフルトヴェングラーとの出逢いだった。
オーケストラを前にして—
話すときには相手の顔を見ること!
落ち着いて話すこと!
要求のすべてを完全につらぬくこと!
なにごともできるだけ簡潔に語ること!
絶えず、まっすぐな澄みきった視線!
なるべく笑わないように。
たえず積極的にし、決して腹を立てないこと。
個人的なことで譲歩しないこと。
(1930年)
~ヴィルヘルム・フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音楽ノート」(白水社)P9-10
何もそれはオーケストラを前にしてのことだけではなかろう。人と対峙したときに必要なコミュニケーションの絶対的な術だ。こういう走り書きを何となく書きつけるフルトヴェングラーはやはり真摯で前向きな、人を大切にする人だったのだと想像する。
ベルリン・フィルの指揮者に就任した4年後の1926年、ポリドールで録音した最初のレコードも、《魔弾の射手》序曲だった。音質に問題があるこの盤の唯一の魅力は、フルトヴェングラーのデビュー盤という歴史的な興味に尽きるが、指揮者も楽員も、音楽の喜びに浸りきっている様子はうかがえる。
~ジョン・アードイン著/藤井留美訳「フルトヴェングラー グレート・レコーディングズ」(音楽之友社)P225
伝統の風趣薫る、古色蒼然とした管弦楽の懐かしい響きが肺腑を抉る。100年近くも前の録音なのだから音質に問題があるのは当然だ。それでも耳を傾けてフルトヴェングラーの真意を読み取ろうと努力をすれば間違いなく感動はある。
フルトヴェングラーが愛したベートーヴェンのハ短調交響曲も同様に、いかにも彼らしい演奏。
冒頭部分は作品全体から切り離されて、それ自体完結した存在であるかのように聞こえる。最後の音を伸ばすことで、構築感といった効果が出る。実質的な音楽はそこから始まるのだ。4つの音が果たす特殊な役割は、この楽章の前半に明らかになり、最後には全体を支配する思想—透明性と和声を呼びおこす新たな霊感—になる。
~同上書P167
フルトヴェングラー自身によるこの解釈は、彼の演奏の根本原理であり、1926年の録音にももちろん当てはまる。
それにしても、一層胸を打つのは1929年録音のバッハのアリア。荘厳で、また安らかで、音楽の冒頭から心に染み入る神韻縹緲たる主題の懐かしさと哀感に言葉がない。