オットー・クレンペラーが晩年に録音したEMI録音は、少なくとも最近のリマスター盤で聴く限りどれも実に生々しい。
例えば、この人のリヒャルト・シュトラウスは、鷹揚でありながら劇的だ。これほどまでにテンポを遅くし、重心を低く落としても決して大味にならず、細部までもが見事に描かれ、音楽が開花する。
興味深いのは、その時読んでいる書物とその時聴いている音楽がしばしばシンクロニシティを起こすこと。植物のメタモルフォーゼ(変容)を具に観察し、論文を起こしたゲーテが宇宙や自然を相手に早18世紀に著した「色彩論」に目を通していて、次の文章に出逢った。何十年、何百年と受け継がれ、人々から愛される音楽作品の内にこそ「真実」があり、僕たち人間を助成してきたのだと思った。
しかし、真実がまやかし物ともっとも確実に区別される主要な目じるしはあくまでも次の点にある。すなわち、真実がつねに実り豊かに作用し、それを所有し培う者を助成するのに対して、虚偽はそれ自体死んだもので不毛のままである。そればかりでなく、徐々に死んでいく部分が生き残っている部分の快癒を妨げる壊疽のようなものとみなすことができる。
~ゲーテ著/木村直司訳「色彩論」P63-64
そして、二度と同じもののない自然の営みこそ、音楽芸術と相似形を成すものだと次の見解を知って思った。リヒャルト・シュトラウスの「ドン・ファン」も「死と変容」も、すべて新しく、しかもつねに古い。そのことをあらためて教えてくれたのが、かのクレンペラーによる演奏。
自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている―彼女から脱け出ることもできず、彼女の中へより深く入っていくこともできない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女はわれわれを彼女の輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕からすべり落ちる。
自然は永遠に新しいもろもろの形態を創る。いまあるものは、かつてけっして存在しなかった。かつてあったものが再び来ることはない―すべては新しく、しかもつねに古いものである。
~同上書P65
自然のうちには永遠の生命・生成・運動がある。しかし彼女は先へ進んでいくわけではない。彼女は永遠に変化し、一瞬も静止することはない。停滞ということに彼女はなんら理解をもたず、静止に対して彼女は呪いをかけた。彼女は決然としている。彼女の歩調はしっかりと定まり、彼女の例外は稀で、彼女の法則は永劫不変である。
~同上書P66
「永遠の生命・生成・運動」という言葉に膝を打つ。普通なら愚鈍に陥りそうな「ユックリズム」にこれほどまでの生気を感じるのはどういうことだろう?サロメの「7つのヴェールの踊り」の、限りなく透明な妖気に舌を巻く。あまりに美しい。
「ドン・ファン」の激烈なフォルティシモの開始に卒倒し、続く弦楽器と木管による妖艶な(女性的な)フレーズに思わずうなる。
「ティル・オイレンシュピーゲル」冒頭の「昔々あるところに」から何というセンス満点の音楽性!
リヒャルト・シュトラウス:
・交響詩「ドン・ファン」作品20(1960.3.9-10録音)
・交響詩「死と変容」作品24(1961.10.23&11.13録音)
・楽劇「サロメ」~7つのヴェールの踊り(1960.3.5録音)
・交響詩「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら」作品28(1960.3.9-10録音)
オットー・クレンペラー指揮フィルハーモニア管弦楽団
少なくとも作曲活動において自然と同化するシュトラウスは、真の意味で信仰心篤く、おそらく形骸化する現代の宗教を否定したのでは・・・。盟友グスタフ・マーラーの死に際し、彼が認めた日記には次のようにある。
ユダヤ人マーラーは、キリスト教のなかで向上することができた。
英雄リヒャルト・ヴァーグナーは、ショーペンハウアーの影響によって、老年に達したとき、ふたたび身を落として本来の姿に帰ったのだ。
絶対にはっきりしていることは、ドイツ国民はキリスト教からの解放によってのみ新しい活力を得ることができるのだ。・・・私は「アルプス・シンフォニー」をアンチ・キリストと名付けたい。―自分自身の力による道徳的浄化、仕事による解放、永遠に素晴らしい自然の崇拝と名付けたい。
(1911年5月付日記)
~ヘルタ・ブラウコップ編著/塚越敏訳「マーラーとシュトラウス―ある世紀末の対話・往復書簡集1888-1911」(音楽之友社)P295
シュトラウスの音楽と自然が、そして宇宙が結びつき、ひとつになる。
オットー・クレンペラーのマジックによって。
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